現時点でのウォマックの代表作となる、全六部の連作長編。「アンビエント・シリーズ」とも呼ばれる。
主にニューヨークを舞台に、巨大企業ドライデン・コーポレーション(通称ドライコ)にすべてを支配されたアメリカと周辺の世界に生きる人間の姿を、20世紀末から21世紀の半ばまでにわたって描いている。
文明は維持されつつも、理不尽な支配者のために社会はきわめて荒廃しており、地球温暖化による海水面の上昇や放射能による汚染が大きな脅威にもなっている。
さらに、ドライコ世界とは別な歴史を歩み、時間の進み方が遅いために相対的な過去(20世紀前半)に位置するパラレルワールドが登場し、いずれもディストピアであるこの2つの世界の変化(ときに相互作用)を、シリーズを通して読者は追っていくことになる。
巻によって時代は前後する。たとえば、未訳の第一長編「Ambient」は、時系列上は第2長編「テラプレーン」の前、第3長編「ヒーザーン」の後に位置している。(下の表を参照のこと)
作者によれば、第一作の時点ですでに全体の構成は決まっていたという。
シリーズ全体の通称にもなっているように、この物語の主な舞台であり、作品世界の象徴でもある巨大企業。アメリカのすべての企業を傘下におさめており、政権をも陰から自在にあやつり、あらゆる独裁者のエッセンスを凝縮したようなパワフルさで合衆国と周辺世界に君臨している。
サッチャー・ドライデンとスージイ・ドライデンの夫婦によって経営され、手段を選ばぬ強烈なキャラクターといくつかの幸運によって支配者の地位にのし上がった。
ウォマックが描きたかったのは、自由企業制の当然の帰結としての独占的な大企業というものではなく、あくまでも独裁者の究極のパロディであり、国家や大企業の冷酷な面を極限まで拡大したカリカチュア的存在なのだろう。資本主義というシステムが必然的に巨大企業を生み出す、というのではなく、人間の愚かさそのものにそのような極端な独占状態を生み出す余地、というか隙がある、というのが作者の世界観なのではないかと思う。
「ヒーザーン」においてはそれほど強調されていないので視覚的な印象は薄いが、企業のマークはヒッピーその他のシンボルとしてお馴染みのあの黄色いスマイル・マークである。これがあらゆる媒体に張り付いてニコニコ笑っているという馬鹿馬鹿しさが、シリーズに通底している。
「ドライコ・シリーズ」の主な登場人物たちは、「ポスト文学(postliterate)」と形容される「未来の英語」で会話をする。
社会の荒廃が人間のメンタリティに与えた影響を反映した、一見とても無味乾燥で無機質なこの未来語は、単にたくさんの造語がちりばめられているというだけではなく、名詞が動詞として用いられたり、助詞や人称代名詞が極端に省かれたりと、現代の英語とは大きくかけ離れたものになっている。その響きの奇妙さは、「時計仕掛けのオレンジ」のナドサット語や、サミュエル・ディレイニーの長編「ノヴァ」に出てくるプレアデス方言(単語は変わらず、ただ語順だけが日本語の文法のような配置に並べ変えられた英語)にも劣らない。
助詞のたぐいが欠けているために、特に会話においてはまるで片言のように拙くも聞こえる一方で、登場人物が箴言めいた発言をするときなどには、この未来語はとても詩的な美しい響きを持ち、読者に深い印象を与える。
一人称で語られているため、この未来語が地の文にも徹底されており(例外もあり、たとえば「ヒーザーン」では語り手ジョアナはほぼ現代の英語で語っている)、これが各長編をとても(ネイティブの読者からも非難の声があるほどに)とっつきの悪いものにしている。
これを日本語に訳すのはきわめて困難で、黒丸尚氏の訳でも、単語としても文法としても癖のある未来語で書かれた地の文のかなりの部分を、わかりやすい普通の日本語として訳しているようだ。
■当サイト内の、サイト管理者による未訳長編の抄訳については、黒丸訳以上に、未来語の地の文を未来語らしく訳するという努力を放棄しています。単なる「下手くそな日本語」にせずにうまくニュアンスを再現する方法を見つけることが出来ませんでした。謹んでここに告白しお詫びします。
「父さん、パン」
ジュニアが父親の方向を向きながら、父親を見ないようにして言い、 「パンして」
("Bread me")
サッチャーは、ありえない蜃気楼を見つけたかのように、宙を見つめ、
「ちゃんと言葉を喋れるようにパンを与えてきたつもりだが」と言い、「言い直してみろ」
("Bred you to speak English," he said. "Want to try again?")
ジュニアの唇は動いたが、それにともなう声がない――音声が消されているのに、自分では気づいていない、といったような印象だった。
「パン、父さん」
ようやく聞こえる声で、そう繰り返し、
「澱粉、必須化」
("Starching's essentialed")
「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990
ウォマックの作り出したもうひとつの人工言語が、「アンビエント語」である。奇形として生まれ、高い知能を持つ集団である「アンビエント」たちは、一般人に対する優越性を誇示するため、知らない者が聞いても意味を掴むことができないような独自の方言を作り出した。わざととんでもなく遠回しな表現を用いて煙に巻くというのがその基本的な戦略だが、ジョイスを思わせる(と形容する人もいる)ような合成語がちりばめられた上に、古英語の言い回しがふんだんに取り入れられ、厳かで仰々しい響きを持っている。この言葉で彼らが祝詞を唱えるミサの場面は、「Ambient」の最も詩的な場面であり、もっとも翻訳が困難な場面であるとも言える。
「ポスト文学」の未来英語も、時代と語る人物によって違いがある。たとえば「Ambient」の主人公シェイマス・オマリイの地の文の語りにはいわゆる「ポスト文学」の喋りよりもアンビエント語の影響が強く現れているし、「ヒーザーン」においては主要人物たちの喋りには端々に造語が顔をだす程度だったのが、「Elvissey」になるとほとんどの登場人物が完全に未来語だけで会話をするので、印象はまったく異なっている。
これらの未来語と、アメリカ南部、ジャマイカ、英国といった「現実の」スラングや方言との混在が、さらに読みごたえ(または読みにくさ)を増している。たとえば、「Ambient」や「ヒーザーン」でのサッチャー・ドライデン父子の会話や、「テラプレーン」でのルーサーたち『未来人』と1930年代の黒人たちとの会話など、異なる背景を持つ登場人物同士の語りのコントラストが際立つ場面が随所に用意されていて、これらはシリーズを読むときの大きな愉しみのひとつである。
ひとつひとつの長編は、あくまでもそれぞれの主人公の物語である。
一人称で語る主人公の視点によりそう形で出来事の推移は語られ、シリーズを通じての大きな流れはつねに遠景にとどまっている。たとえば「ヒーザーン」には、時系列上そのすぐ後に来る第一作「Ambient」での展開をほのめかす記述があちこちに非常にさりげない形でちりばめられているが、この一冊だけを読んだときにはまずそれらには気がつかないだろう。
いくつもの長編にまたがって登場する人物は少なく、多くは巻が変われば不可解なほどに表舞台から姿を消し、その後の消息はほとんど知らされることがない。
ドライコ・シリーズは厳密な意味での「未来史もの」ではない。あるいは、未来史という形での完成を目指して書かれたものではない。作中で年号が示されている箇所はほとんどなく、ただ「××から××年が経過」という風に説明されることが多い。記述から出来事の推移を整理しようとすると大小いくつもの矛盾にぶつかることになり、このあたりの記述のずれは意図的になされているのではないかと思えるほどに数多くある。
しかし、最近になってweb上で見つかった作者自身の説明によれば、正しい時系列は以下のようになる。(作品名の後のカッコ内は作品の発表順)
作品名 | 年号 | |
1 | Random Acts of Senseless Violence (5) | 1998年2月 |
2 | Heathern 「ヒーザーン」 (3) | 1998年11月 |
3 | Ambient (1) | 前作の12年後(2010年) |
4 | Terraplane 「テラプレーン」 (2) | 前作の6年後(2016年) |
5 | Elvissey (4) | 前作の15年後(2031年) |
6 | Going, Going, Gone (6) | 前作の14年後(2046年) |
■より詳しい出来事の推移については次のリンクをご覧下さい。もう少し深く内容に踏み込んでいるので(中心となるプロットではなく背景の出来事についてですが)、ネタバレを避けたい方はご覧にならない方がいいと思います。
*恥ずかしながら考察の大部分が単なる読み違いであったことが判明したので、一端リンクを切っておきます。近日中に書き直しの予定です。(2004.05.29)
ドライコの物語は二つの平行世界を行き来する。
異なる歴史を歩んできた「もうひとつの世界」はドライコ世界よりも時間の流れが遅く、たとえば21世紀初頭を舞台にした「テラプレーン」では、もうひとつの世界はまだ第二次大戦以前、相対的な過去の時点にある。ふたつの世界の間の移動は時空間の転移であり、同じ時間線上の移動、すなわち「時間旅行」ではない。
いわゆる「タイムトラベルもの」のSF作品よりもまわりくどい舞台設定だが、その文学的な意味はあきらかで、過去と未来と、ふたつのディストピアを対置させることで、(きっかけ次第で)世界はどこまで悲惨になりうるかということについての作者の考えをより明確に示すことが出来るからだろう。
「――どちらにせよ、その結果としての変化は奇跡的な歴史の鏡を与えてくれるから、その中にわたしたちは、そうなったかもしれない自分の顔を見ることができる」(「テラプレーン」1990)
もう一つの世界のアメリカもドライコ世界と同様の、あるいはそれ以上に暗黒の社会として描かれており、その最たる例が極端な人種差別である。
*『ドライコ世界』も、第一作執筆時の1987年の先にある未来というよりは、それ自体がまた別の(それ以前の時点からの異なる歴史を経た)平行世界であると解釈できるような記述がみられる。
宗教も、シリーズを通じての大きなテーマになっている。
現実の支えがなにもないディストピアにおいて、人々がすがるものといえば宗教以外にありえない。一方で、世界をディストピアに変貌させるために破壊しておくべき大きな柱のひとつもまた宗教だろう。
しかしそれ以前に、「人の心の奇妙なふるまい」のひとつとして、宗教全般にウォマックは大きな興味を抱いているようだ。
大前提として、この物語の舞台からはキリスト教が失われている。その存在が推測されるに留まっていた、新約聖書のミッシング・リンクたる「Q文書」が本当に発見されるのだが、その内容が、イエス・キリストが偽物の救世主であり、当時の為政者の傀儡にすぎなかったことを暴くものであったために、キリスト教の権威は完全に失墜する。このことが西欧世界の荒廃の大きな一因となった。
混乱し悪にみちたキリスト教なきあとの世界で、新たな心の拠り所として浮上するのが、グノーシズムである。「ヒーザーン」の登場人物、レスター・マキャフリイが説く「神/
もう一つ、のちにより大きな勢力として世界中に広まることになるのが「エルヴィス・プレスリー信仰」である。エルヴィスが救世主として降臨するというサッチャー・ドライデンの個人的な妄想が、キリスト教が失われた西欧世界に広がり、ドライコのコントロールが及ばないほどに大きな勢力になってゆく。
■次のページからは各長編の解説になりますが、ストーリーについて全く知らずにおきたいという方はインタビューへスキップしてください。