未来の世界を舞台においたフィクションなら、SFというジャンルに分類されるものに限らず、無数にある。だが、そこで登場人物がきちんと「未来の言語」で会話している作品の数は、思いのほか少ない。
「知らない言葉で書かれても読めない」というのがその身も蓋もない理由だろう。馴染みのないものが出てくればくるほど平均的な読者は逃げるという、どれだけ異質な世界を描き出せるかということが面白さの大きな要素のひとつであるはずのSFが直面する、本質的なジレンマにも通じるものがある。たとえば、ドラスティックな変貌をとげた未来社会を舞台にしてSFのひとつの極北とされるヴァーリイの作品のなかに、なにかというと懐古趣味の持ち主が20世紀末の風俗をまとって(古くさいスラングをまくしたてながら)登場するのも、とっつきやすさを少しでも向上させようという作者の営業努力のたまものではないだろうか(と下世話な憶測で書いてみました)。リーダビリティの一線を越えることは、作家の生活にかかわる危険な行為となる。
また、架空の文化風俗を描くのにはかなりのセンスが必要で、失敗してしまうと作家も読者もとても気恥ずかしい思いをするため、二の足を踏む作家が多いということもあるだろう。話し言葉はその最たるものだと言える。
言語の創造は、フィクション・ライティングにおけるどでかい鬼門なのだ。
ウォマックは、この危険な領域に踏み込んだ数少ない作家の一人である。「ドライコ・シリーズ」のなかで彼が創り出した「ポスト文学」と称される未来の英語は、単語のみならず文法レベルでも現代(現実)の英語と異なる部分があり、一人称の叙述形式という縛りまでついて、会話だけでなく、地の文までもが延々この誰も聞いたことのない言語で語られるのである。その意義をどれだけ賞賛しても足りることはない。この果敢なチャレンジは、もちろん、非常に効果的に一部の読者を遠ざけた。
この人工言語にどれほどのもっともらしさがあるのかは日本の読者には判断のつきかねるところだが、すぐれたオリジナリティと読者を突き放すほどの徹底ぶりには疑問の余地はない。英語を話さない読者にも、美しく、またはクールに響く箇所があり、読んでいるうちにクセになる。英語の修得が不完全な人間が読むと「どこにもない英語」をうっかり学んでしまう恐れがあり、非常に危険でもある(個人的にもとても不安です)。
そんなウォマックの邦訳の二冊、「ヒーザーン」と「テラプレーン」を手がけたのは、こちらもクセのある文体で知られる翻訳家、故・黒丸尚氏。
「!」と「?」などという外来の記号で日本語を汚すことを頑なに拒み、問いかけの文は「…」を、叫びなどは「っ」を語尾につけるなどして強引に処理してしまうという、あまりといえばあまりにも個性的なスタイルに賛否が大きく別れ、ウィリアム・ギブスンの諸作にしても「あの訳文のせいで読み通せなかった」という声があるほど。しかし、古風な日本語の言い回しに通じ、地の文の表現の豊かさと洒脱な会話文の処理で、印象的な翻訳の数々を残している。早すぎる他界を惜しむファンは数多い。
彼によるウォマックの訳もまた、少なからぬ日本語読者を落伍させた。
訳者の手柄と言うべきだろう。原文の奇妙さ、とっつきにくさが、訳文に見事に再現されているのである(もちろん、美しさも)。
「了解、父さん。倍二重。もしなし、たぶんなし」
"Understood, Dad. Doubledone. No ifs or maybes."
「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990
「ヒーザーン」より、晩餐の席で父親に話し方を注意された15歳のサッチャー・ドライデン・ジュニアが口応えをする場面。ドライデン父子の会話は、端々に南部訛りが覗く父親とポスト文学まるだしな息子とのコントラストで楽しませてくれる。
原文を見ると、無機質さと同時にどことなくぶっきらぼうな語調が感じられて、父親の顔もまともに見られない気弱なティーンエイジャーがそれでもおどおどと反抗する様子がなんとなく伝わってくるが、黒丸訳ではそのあたりのニュアンスよりも言葉の奇妙さを強調するような訳になっている。日本語で育った身としてはウォマックの未来語がネイティブの読者にとってどのくらい妙な響きを持っているかがいまひとつピンとこないのだが、ウェブ上で見られる海外の書評などには「おかしすぎてとても読めたもんじゃない」と書かれたものもあるくらいなので、黒丸尚はそのインパクトを的確に日本語に置き換えることに成功しているのだろう。
もしこれをふつうの口語らしく意訳するなら、こんな風になるだろうか。
「もうわかったよ、父さん。何度もしつこいんだよ。仮定の話はやめてくれよ」
第一長編の「Ambient」には、成人したジュニア改めミスター・ドライデンのセリフに、とある人物を指して"Batbrained. Not iffed or maybeed"と言うものがある。「コウモリ脳化だ。もしたぶんなく」という感じだろうか。第三作である「ヒーザーン」では、第一作のこれを思い出させる先のセリフによって、キャラクターとしての連続性が強調されている。
大幅な簡略化と短縮化、そして「ほとんどの単語を動詞として扱うことができる」ことがその最大の特徴だろう。単語としては、一からつくられたまったくの造語というものはほとんどなく、現代の英語を色々に変形したものが大部分だが、その文法的なひねりが読者に驚きをもたらしている。
簡略化の一方で、形容詞が動詞になったものにはむしろ発音するのもわずらわしそうなややこしさがあり、そこにアクセントとして「ナーダ("nada")」などの外来語が挿入される。
ほかの言語への自作の翻訳に関して、作者はインタビュー(*)で「英語が持っているような柔軟性をもつ言語がほかにあるかどうか、よくわかりません」と語っているが、「これ-を-わたし-に-ください」ではなく「これください」と縮めて言うのが当たり前の日本語には、実際のところその手の柔軟性が充分にあり、そのために、訳したときに「ふつうの(ややぶっきらぼうな)日本語」になってしまいがちなのが難しいところ。
必須化 | essentialled | 未来語のなかで、おそらくもっとも印象に残る一語。綴りには"l"が一つのときと二つのときがある(どうでもいいことですが)。「必要である」というほかに、「求められている」とか、単に「欲しい」という意味でもこの言葉が使われる。 |
viz | おそらく"vision"から派生したと思われる言葉。"see"や"look"の替わりに使われる。 | |
AO | AO | "all OK"の略、セサミ・ストリートの主題歌(*)でも歌われているところの"A-okay"をさらに縮めたもの。"all right"や"yeah"などとと相槌をうつときにもこれを使ったりする。 |
〜方 | --ways | 「ポケット方("pocketways")」 、 「床方("floorways" )」など、ドライコ世界ではいろんな名詞にくっついてくる接尾辞で、「〜の方へ」の意味。 |
〜なし | sans | これは造語ではなく、フランス語。"no"や"without"の替わりにこれが使われる。ちょっと気取った言いまわしとして現実にも用いられているようだ。 |
「単独 」とジェイク、「回収った。橋方で撒いた。灰は灰は灰、丸五尋」
"Solo," he said. "Pickuped. Did the drop bridgeways. Ashes to ashes to ashes, full fathom five."
「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990
「ヒーザーン」より、ある人物の遺灰を、ジェイクが受け取って橋から撒き、弔ったと語る場面。「ポスト文学」なドライコ世界をもっとも体現する人物として、ジェイクは無口ながら短くも詩的なフレーズをいくつも残している。これを日本語になおすのは、詩や俳句の翻訳と同様のむずかしさがある。黒丸訳の巧みさが光る一文。
"full fathom five"はシェイクスピアの詩から、"Ashes to ashes"は聖書の一節からの引用(後者はデヴィッド・ボウイの同名の曲を意識している可能性もあるが、作者がボウイを好んで聴いていたのはもっと初期のころらしい)。この当時、ジェイクは古典文学を学んでいて、仕入れたての教養が未来語と違和感なく一体化している。ポスト文学なるものがこの文にもっとも端的に示されているのではないだろうか。
「玩具店だ」
そう言ったが、静かでわたしにもかろうじて聞こえるぐらいだった。運ちゃんには聞こえ、口を閉じて床まで踏みこむ。
"Toystore me," he said, so softly I barely heard. The hack heard; lipshut and floored.
「テラプレーン」黒丸尚訳 1988
「テラプレーン」には、ルーサーによる地の文の語りにも、簡潔で美しいリズムがある。これは、土産物商売を始めようとしたタクシーの運転手をジェイクがドリルで脅し、発車させるという場面。"lipshut and floored"という言い回しが実に粋なのだが、訳すとなると、「おかしな日本語」になってしまう陥穽を避けるのはむずかしい。「口閉じ床した」…これではどうも格好わるいし意味も判りにくい。黒丸訳では、上の引用のように意味の通りやすさを考慮したと思われる訳が地の文の大部分を占めている。
「できたら病院行き願う。弁済する。倍増し緊急だ」
"Hospital us if possible, please. We'll reimburse. It's urgent twiceover."
「テラプレーン」黒丸尚訳 1988
名詞 "Hospital" が「病院へ連れてゆく/収容する」という意味の動詞として使われている。造語ではない"reimburse"という単語に「弁済」という聞き慣れない法律用語があてられ、全体としての響きの奇妙さが補強されている。
「一」スクラートフがささやき、「二――」
最後の数字が発せられる前、次のわたしの息が吐かれる前に、わたしはドアが開いているのに気づき、同時に中から悲鳴が響いた。ジェイク――いかなる銃弾も、あれより早くは飛ばない。
"One," Skuratov murmured, "Two--"
Before the last number came, before my next breath passed, I noticed the door's ajarness as a scream rang within. Jake--no bullet flew faster.
「テラプレーン」 1988
これは特にこれといってポスト文学的ではない、普通の英語と言っても通りそうな文。やはりリズムが美しく、最後の一文で見事に決まる。
「アンビエント」出版当時、よく引き合いに出されたのはアンソニー・バージェスの「時計仕掛けのオレンジ」である。ロシア語やジプシー方言、ライミング・スラングなどからなる「ナドサット語」で語られるこの小説が、ドライコ・シリーズの未来語に影響を与えたのではないかと
"Bedways is rightways now, so best we go homeways. Right?,"
アンソニー・バージェス「時計仕掛けのオレンジ」