interview(2) - 1995



インタビュアーはNY在住のアーティスト/評論家、ダイク・ブレア。
ひそかに見逃せないのは、先のインタビューから続いて、ブルース・ウィリスが「アンビエント」の映画化権を(少なくともこの当時は)握っていたという事実。「12モンキーズ」みたいな映画になるところだったんでしょうか。




[ http://www.thing.net/~lilyvac/writing21.html ]

 あなたは現代の作家たちと同じような道具立てをいろいろと用いていますが、SFというジャンルを選ぶことによって、うとましい作者自身の肉声というものを避けているように見受けられます。あなたの描く近未来は、たとえばマーティン・エイミスが「London Fields」で創造したものとそれほど違ってはいませんね。

ええ、そうですね。私が作品のなかでしたことはすべて一人称の語り手を用いてなされています――自叙伝を書くというのでもないかぎり、世間一般の通念に反するやり方ですね。書き始めるまえに、登場人物の内部にとことん深くまで入り込むようにするので、冒頭の10から20ページほどの間、正しく語り手の声(ヴォイス)をつかむことが出来れば、あとは最後まで、効果的に、比較的難なく、それを使い続けることができます。私はそれが未来からの報告のように聞こえるように努めています。ロシア人が英語で書いたり、12歳の少女が日記を書いたり――これまでのところ、それに関しては運が良かったのではないでしょうか。同時に、わたしは自分の声が小説の中にゆき渡る、充分に独特なスタイルを編み出したとも思っています――ウォマック・スピークとでも呼ぶべきものを。あなたがうとましい肉声ということの意味は、よくわかります。私は出来る限り作者の手のあとが見えずにいるようにしているんです。

 それはジャンル内で書くことの結果なのか、それともなにかのルールに則ったものなのでしょうか?

そのルールというのがどんなものなのか、私は知らずにきてしまいました――少なくとも、サイエンス・フィクションについては。子供のころのジュール・ヴェルヌと、70年代にローリング・ストーンのポール・ウィリアムズの書評にひかれて「高い城の男」を読んだ以外にはサイエンス・フィクションを読んだことはありませんでした。「アンビエント」を書いていて、やりたいことを盛り込むには一冊では足りなくなることに気がつきましたが、その時点では、SFにおけるもっとも普遍的な、ほとんど標準技法といってもいい形式は三部作なのだということを知らなかったのです――普通の文学ではそれほど使われていない形式ですね。もちろん、やっていくうちにジャンルの伝統を知るようにはなるものです。それで、私のおそらく一番SF的な作品である「エルヴィッシー」では、そういう伝統を裏返しにしてやろうと試みました。(*作品の詳細に立ち入るため一部割愛)
 「エルヴィッシー」がフィリップ・K・ディック賞を受賞したのは喜びでした。彼はSF作家のなかでは私が(作品の大部分は)気に入っている数少ないうちの一人だったからです。

 バラードはどうですか?

バラードも好きな一人ですが、「アンビエント」が世に出るまで読んだことはありませんでした。ヴォイス誌の書評子が私のことをネオ・バラーディアンと説明したので、友人から「クラッシュ」を借りて、楽しく読みました。

 あなたの作品の文学的な質の高さはハリウッドにはアピールしないだろうと思えるのですが。

実際には、2冊の本の権利が売れています。「アンビエント」はここ数年ブルース・ウィリスのところの人間の手にあります。今年彼らが権利を更新して、私は仕事を辞めることができました。

 伝統的なSFの読者にはどんな風に読まれていますか?

友人のひとりはいつも、私がドライコの組織構成をちゃんと構築していないと言って非難します。あれはメタファーなんだと言っているんですが。「ああいう筋立ては誰でも使う」というたぐいの抗議も耳にしましたが、そう言う人たちは要点をとらえていないと私は思います。

 あなたの外挿した未来があまりにも起こり得ないことに思えるので、それがもっともらしく書かれていないことへの失望を呼ぶのでは。

大きく成長した未来のマイクロソフト社を描くなんてことは誰にでもできる――だがそうして出来上がるのは本質的には単なるビジネスの教科書です。SFのそういうところに私は困惑してしまうんです――「彼は靴の紐を結んだ」ですませる代わりに「彼は靴紐を穴Aから始めて穴Mへと順に通して結んだ」と書くという具合に、何かの仕組みを説明するのに時間をとられすぎてしまうところに。私は「ほら、こんな感じだよ、あとは好きにしてくれ」としたい方なんです。これを喜ぶ読者もいれば、とことん嫌う読者もいます。

 ウォマック・スピークは他の言語にどう置き換えられているんでしょう?

ドイツ語ではあまりうまくいっていないと聞きました。最近の何冊かではいい翻訳者に恵まれていますが。フランス語については、わかりません。私はたくさんの名詞を動詞に変えたり、その逆をやったりしています。この手のことについて、英語が持っているような柔軟性をもつ言語がほかにあるかどうか、よくわかりません。幸い、すべては私の手を離れています。

「ウォマック・スピーク」の主成分は?

「アンビエント」に関しては、現代の英語をある程度先へすすめたものです。アンビエント語それ自体はエリザベス朝時代の英語に似せてつくりました。トマス・ナッシュの「悲運の旅人」からの拝借です。この手のものに関する素晴らしいネタ本ですね。リズムについては、私は自分で声を出して読み上げてみて、正しいリズムを持っているか確かめるようにしていました――韻律のビートではなくて、ただリズムのパターンとして。

 南部出身の作家は耳がいいという決まり文句がありますね。

おおむねそうだろうと思います。裏付ける科学的根拠というものは知りませんが。きわめて口伝えの文化なんです。私が小さい頃は、みんなその辺に座って30年かそこら前のあれこれについて聞いたものです。娯楽といったら、座り込んでお話を作るぐらいしかなかったんですよ。

「Random Acts...」を読んで、いかなる種類の個人の安寧も希薄なものだというあなたのヴィジョンには衝撃を受けました。

アメリカに住む誰もが、災厄と給与明細一枚分しか隔てられていません。そんなことはないと誰もが信じ込んでいますが、この国で2週間も不運が続けば、深刻なトラブルに見舞われるはずです。私は「Random Acts...」で、「これはあなたにも起こりうる――それを考えてみなさい」と言っているんです。

 あなたの作品はあなたが政治的にきわめてラディカルだと示唆しているようですが、それはどんなものなのでしょうか?

私ははるかに左寄りで――非常に無政府主義的ですね。この国やイギリスやヨーロッパの左翼は、過去30年間にわたって、あきらかな混乱のなかにあります。私は、今日の諸問題についてなんの解決策も持たないながらも、左翼の同朋たちに活を入れてやりたいんです。物事の先行きが見えてしまっているからといって、「まあ、紀元500年みたいなもんで、王とその子分は丘の上の城に住んで、ほかのみんなは外で馬の糞にかこまれて暮らすってことでいいじゃないか」なんて言っていればいいわけはない。

 人は用心深く、意識的でいることができると?

その通り。周囲で何が起こっているかに気づけるということです。どんなアーティストでも、その表現の内容が何であれ、まずは自分の満足のため、次にはひとりの人間の心に衝撃を与えるために、そうであってほしいと願うものです。それが作家たちがなるべく沢山の読者に読んでもらおうとする理由でもあります。
 私にはジェイムズ・A・ミッチェナーやスティーブン・キングにつくような客は得られないとわかっています。ただ単に、ああいうポピュラーなタッチを私は持ち合わせていないということですね。私には自分の出来ることと出来ないことがわかっているから、芸術的に自分の出来る最善を目指します。私はただ書くことに、説教臭くないやり方でアイデアを伝えることに専念する、なぜなら政治で頭を一撃することほど、知性ある読者にそっぽを向かせるやり方はないからです。靴の紐の結び方をはっきりと説明するのか、曖昧にするのかということについても同じ様な考えでやっています。

 左翼思想は土台となる政治的規範を持っていないように思えますが、これは我々の科学技術思想(科学万能主義?)についてもあてはまる事ですね。

幸か不幸か、私たちの暮らしている時代は、大きな政治的変化のみならず、農耕文明から工業のそれへの移行にも見舞われた1700年代末期のイギリスによく似ています。あの当時に未来学者はおらず、その先になにがやってくるかについて、人は見当すらつけることが出来ませんでした。1750年のイギリスに生きていた誰一人として、1850年のイギリスがどんな風になるか、知りようがなかったんです。現在でも、予測の経験やコンピュータ・モデルをもってしてもなお、50年や60年先がどうなっているか、言い当てるすべはありません。ある程度までは多分変わらないだろうと想像はできますが。

 あなたは人々は歴史から学ばないと言ったことがありますね。

我々は確かに人間が歴史から学ぶと考えたがるものですが、そうではないでしょう――ましてや6週間前の出来事が1840年の出来事も同然のアメリカともなれば。これはひろい政治的な意味にとどまらず、個人の人生においても同じです。私は単にそれが人間性というものなんだと思います。私は時に、この人間性に対する低い評価が、はるかに保守的な課題を抱えている人々と同じ領域に我が身を置かせているのではないかという恐れを抱くことがあります。違いは、彼らが物事をあるがままに放置するのに対して、私は変えようとするという点です――ただそのすべを知らないというわけなんですが。

 民主主義的な思想の持ち主にしては、あなたは大衆というものにあまり信頼を置いていないようですが。

そう、そのことがまた、エリート思想の顔を持つ保守派たちの居心地わるい傍らに私の身を置かせているんです。私自身の人間性に対する見解が、あれこれの面で私をエリート主義者にしています――なにが起こっているかわかっている者はとてもわずかしかいないと私には思えてしまうんです。人間力学を理解する能力に欠けているというまさにそのことが原因で、善意によって立てた計画もひどい迷走へ向かわせてしまう、そういう現実離れしがちなリベラル・エリート達と同様の偏見に満ちた視点に私も立っています。どちらの側も叩かれるべきだと思う、と言って済ませてしまってはいけないでしょうか。そうすることで当たり前のエリート主義者になることを避けられるという希望を私は抱いているようなのですが、おそらくそうはいかないでしょうね。

 インターネットには時間を費やしていますか?

ほんの少ししか。メールのやりとりと、オルタナティブのサイトをいくつかチェックする程度です。いい歳をして14歳のような振る舞いをする人々と掲示板でやりとりしたいとはあまり思いません。

 ユートピアの幻想をありがたがるべきではないのでしょうか?

それが人々を前進させているんですよ。私の登場人物たちの多くも、心の底では、ディストピア的環境のなかにあっての理想主義者です。希望が彼らの乗り切ってゆく助けになっています。