"Very dark very funny"    - THe Worlds Womack made

ジャック・ウォマックの作品世界



 鏡にて己が形を見、狂い走れ。そうアンビエントたちは言い、言わんとする所はわたしにもわかる。彼が沈むままにわたしも沈み、もはやこれ以上に深くは沈みようがない。その朝、わたしは心の変化に気づき、他の道を探そうという気持ちになった――だが他の道などありはせず、この先もあるとは思えない。与えられたものをとるか、全てを失うか。ただそれのみ。わたしはこの場に立ちつくし、耳なく、愛なく、魂もない。なかば主人、なかばアンビエント、合わせてもなお、いずれにも満たず。

"AMBIENT" 1987




 わたしは眼を閉じた。退役した以上、もはや暴力を見つめる要はない。空気がふっという音は、射撃の轟音とおなじぐらい、少年の最後の一息とも聞こえた。たぶん、現地踏査を多くやりすぎて、わたしは厭気がさしているのだろうし、たぶん、テークアウトを多くやりすぎて、ジェイクはなお飢えているのだろう。わたしが眼を開くと、ジェイクが少年の頭の下のレース状の血のパターンを見つめている。花びらのような脳漿を見やり、フォルムとテクスチャーを検討しているかのようだ。季節を問わず、芸術はそのありようを知る。
「とても綺麗」ジェイクがつぶやく。

「テラプレーン」黒丸尚訳 1988




「こいつは生かして」
 警部が婦長に言う。若者は運ばれていった。次の担架には女性が横たわっていた。足首はマットレスを支える金属棒に手錠で固定され、両手は頭の上で縛ってある。
「この人は……」
 婦長がたずねる。その女性が何をしたのか、推測することもできなかったし、警部も言わなかった――わたしが顔をそむける暇もなく、警部が女性の頭を撃ち抜いた。部屋にいる人間で体のきく者、あるいはTV誘導による恍惚状態が深すぎなかった者は、床に身を投げる。わたしはレスターにしっかりつかまりながら、エイヴィのあとから受付デスクに向かった。
「あれ見た」とわたし、「あれ見た」
 レスターは返事をしない――何を付け加えることがあろう。警部と婦長は巡回を続ける。


「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990



 ジャック・ウォマックという作家をご紹介します。

 SFと主流文学の境界上にある作品を書く作家です。
 代表作である通称「ドライコ・シリーズ」の全六部作と、現代(近過去)のロシアを舞台にした長編「Let's put the future behind us」のほか、数編の短編が世に出ています。
 第一作「Ambient」がウィリアム・ギブスンやブルース・スターリングといった第一線のSF作家の絶賛を受け、初期はいわゆるサイバーパンク・ムーヴメントと関連して取り上げられがちでしたが、作家のテーマはSFというジャンルそのものともやや違うところにあり、近年では主流文学の方面で読者を獲得しつつあるようです。

 長編作品の舞台はいずれも非現実的なまでのディストピアであり、荒廃し、有形無形の暴力に満ちた社会です。この荒唐無稽な背景世界に、一人称の語り手の視線を通した細密な近景の描写がリアリスティックな手触りを与え、豊かな比喩とアフォリズムにあふれた文体で登場人物の内面や社会の諸相が語られます。
 苛酷な世界とそこに生きる人間の生々しい格闘、というのがすべての作品に共通する構図です。

 言語への深いこだわりも、ウォマック作品の大きな特徴です。近未来を主な舞台とする「ドライコ・シリーズ」の登場人物たちは、現代の英語に奇妙な変化が加わった「未来の英語」で会話します。一人称の小説なので、当然地の文もこの同じ未来語で綴られています。社会のドラスティックな変化と切り離せない関係にあるこの未来語を中心に、スペイン語、ロシア語、日本語、南部訛りに黒人スラングなど、いくつもの時代、地域、コミュニティーにわたる多様な言葉の混在が、作品を読みごたえのあるものにしています。

 他の言語への翻訳は困難であろうと作者自身も語るこの作品を、日本では、ウィリアム・ギブスンなどの訳で知られ、そのアクの強い文体が絶賛と批判を呼んだ黒丸尚(くろま・ひさし)氏が訳しました。未来語の奇妙な響きを日本語に移し替える難行を見事になしとげ、原文の読みにくさもまた見事にそのまま再現したとも言われています。
 残念ながら、ドライコ・シリーズの第三部「ヒーザーン」、続いて第二部の「テラプレーン」を訳した後、黒丸尚氏は病のため若くして世を去り、現在のところ残りの作品が翻訳される予定はないようです。前述の2冊も現在は絶版です。

 かくして、日本においてウォマックは押しも押されぬ典型的カルト作家としての地位を獲得するに至りました。このままでは(少なくとも日本では)ただ静かに消え去ってゆくのみと思われ、ファンは残りの作品の翻訳が出版される日を待ち望んでいます。






 痛みはわたしより先に眠りに就いた。アンビエントたちはこれが終末の日々であることを喜び祝い、そうであることを願い祈り、そうすることによって彼らのまわりで荒れ狂う世界に終わりがもたらされるのなら、誰であれ、所有したいと望むものに自分たちの魂を引き渡すつもりでいる。私にはどうでもいいことだ。それが正しく行われるのなら。

"AMBIENT" 1987


ディストピア

 「ドライコ・シリーズ」は、残忍な巨大企業の支配によって荒廃をきわめ、あらゆる種類の暴力がはびこる、近未来のアメリカが舞台です。シリーズ外の長編「Let's put the future behind us」は現代(近過去)のロシアが舞台ですが、物資の欠乏やマフィアによる搾取やサボタージュ等々がやはり社会を住みにくいものにしています。

 ウォマックは常に、極度に悲惨な社会を舞台として用意します。極端すぎてとてもありそうには思えないこれらの社会を、作家はしかし現実に起こり得る明日の世界の姿と考えているようです。(ロシアに関しては、現状はもっと異様なのだと力説しています)
 実際、このディストピアを作り上げているひとつひとつの要素は、現実世界のどこかの時点で実際に生起した(あるいは現在進行形で起こっている)あれこれの出来事や状況を反映したものだと言うことが出来ます。大量虐殺や人種差別、経済システムの崩壊、路上や家庭内での暴力と、どれもそれだけをとってみれば、毎日のニュースで報じられる事件やよく知られた歴史のトピックとさほど変わりはありません。ウォマックはただそれらの可能性を極限まで押し進め、そのすべてを一緒くたに自分の作品世界に放り込んだだけなのです。
 社会がどこまで悪くなりうるかについての深い確信のもとに、ウォマックはこのような舞台をつくりあげているようです。




くそっジャー!」
 ジミーが叫び、ハンドルを切った。タクシーが――トランクの蓋に刻まれた「寄ッタラ殺ス」の文字――車線を離れ、こちらにぶつかってくる。いかれた男はジミーに叫び声をあびせ、こちらのレーンに侵入してきた。車の正面を覆った鋤のようなバンパーを武器に、ジミーは速度を上げるとタクシーに激突し、79番街の手前のカーブまで押し出した。ドアが開き、運転手は側溝に転げ落ちた。ジミーが防御ボタンのひとつを押し、通り過ぎざま男を蒸気で生焼きにした。男はとれたての魚のようにのたうちまわる。
「御陀仏野郎はもう手が出ねえ」
 ジミーは笑い、顔にかかったドレッドヘアをふりはらった。
「用心はしておく」と私。
 悪ガキどもがパーク・ウォールから飛び出し、料理の下ごしらえのように運転手を叩いて柔らかくする。ひとりがタクシーの窓を叩き割る。満足せず、通りかかった他の車の窓も割る。少年兵が笑い声をあげた。触発され、さらなるお楽しみを求めて彼らは後ろから徐行してきたバスに発砲する。乗客は高く跳ね上がり、バスの側面から道に落ちた。

"AMBIENT" 1987


あまねき暴力

 どの長編も全編がすさまじい暴力に彩られています。しかし、それらの暴力の描写に興味本位のどぎつさはなく、むしろ淡々としています。未編集のドキュメンタリー映像や、監視カメラの静止したフレームに偶然とらえられた事故のような、感情をまとわない記録に特有のリアリティがそこにはあります。
 一人称の語り手を通してすべてが描写されていることがその大きな理由のひとつです。この世界の住人にとって暴力はあまりにもありふれたもので、もちろん正視に値するものでもなく、結果、特に自分自身に降りかかってくるもの以外の暴力や悲惨な出来事については、努めてそっけなく語られるという傾向が生まれるのです。
 語られ方の意図されたさりげなさとは裏腹の暴力そのものの苛烈さ、凄惨さが、彼らの住む世界の荒廃を際立たせています。



黒いユーモア

 ひたすらに暗く陰惨な物語を書く作家というイメージが定着しているウォマックですが、どの作品の裏にも、作者の洗練されたユーモアのセンスがうかがえます。
 離れた視点から出来事を語ることによって自然に生まれてしまう可笑しみもあり、状況があまりに常軌を逸しているために不可避的に漂ってしまう馬鹿馬鹿しさもあり、それらの効果を作家はよく自覚しているようです。悲惨が滑稽に転ずる瞬間が、物語のなかにたびたび訪れます。
 そのほかにも、異なるバックグラウンドをもつ登場人物同士の話し言葉のギャップが生むコミカルな状況が印象ぶかく、また、随所に挿入される新聞の見出しや壁のスローガンなどにも、作者の黒いユーモアがいかんなく発揮されています。




「非現実的ねえ。ここにあるのを聞いてごらん。メキシコ女のタコスにエルヴィスが現れ、何百人もがお参りして病気が治った。異星人に妊娠させられたとして、ある女性はNASAを訴えた。ダートマス大の教師が政治学の学生をゲシュタポとユダヤに分けて、権力の限界を示そうとし――三人死亡。どれもみんな、先週の《タイムズ》誌からだぜ。アメリカの白人ティーンエイジャーの死因で第二位はなんだと思う……」
「退屈かしら」
「関係なくはない」とバーナード、「自己性愛窒息」

「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990


非SF的ガジェット

 一般にはSFとして分類され、それらしい舞台設定のほどこされた代表作の「ドライコ・シリーズ」ですが、読んでみればいわゆるSFの主流とは一線を画していることがわかります。

 人物の内面の描写にもっとも重点をおくことの結果として、作者はあれこれの小道具の作動原理や企業の組織構成についての説明のために行を割くことをほとんどしません。主人公達の手に触れる範囲の外にあるものの詳細は曖昧なままにおかれ、SF的な考証への興味を持って読む読者に失望をいだかせます。
 一見SFと通じるような道具立てや背景は、あくまでも現実社会の異様さの象徴として選ばれたもので、テクノロジーへの興味から生み出されたものではありません。

 ウォマックの想像力の源となっているのは世間一般のSFのような真っ当な最新科学の成果ではなく、もっといかがわしい出自のもの、素人学者が唱えるおかしな科学理論や、タブロイド紙を飾る事件の見出し、都市伝説や超常現象などです。また、(宗教全般を含む)奇矯な社会的ムーブメントにも強い関心があり、そういったイメージの源から、物語のなかには、グノーシス、エルヴィス・プレスリー信仰、ナチスの空飛ぶ円盤、各種の超常現象に超能力、天使、自己啓発カルトといった意匠が、よりねじ曲げられた形で、当たり前のように登場します。



一人称の物語

 長編作品はどれも一人称の視点で語られています。
 ウォマックは作品ごとにまったく違うバックグラウンドを持った主人公をすえ、それぞれの内面を丹念に描き出し、また語り手の視線を通して非現実的な世界の近景をディテール豊かに描写し、リアリティを持たせるという手法をとっています。
 人物の内面から世界を描くということが、ジャック・ウォマックのストーリーテリングにおける最重要課題であり、それぞれの長編ごとに、徹底して血の通った、それぞれが独特の語り口を持つ人物たちを作りだしています。










このサイトについて:

 ジャック・ウォマックという作家の、ファンによる作品紹介サイトです。
 制作・管理者は倉田タカシ(職業:イラストレーター)です。
 作品の内容についての記述や未訳作品の抄訳がありますが、読む楽しみを損なうようなネタばらしはしないよう、注意しています。特に未訳の作品については、主要なプロットには極力触れず、邦訳のある2作品に登場する人物や舞台背景について、より理解が深まるような部分を中心に取り上げるようにしました。
 長編「ヒーザーン」と「テラプレーン」の訳文はハヤカワ文庫SF・黒丸尚訳から引用しています。それ以外の長編およびインタビューの訳はサイト制作者によるものです。

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