interview(1) - 1992



初出はvirus誌1992年春号。リンク先はテキストファイル。
「乱流のアイロニー」というタイトルで、物理学のカオス理論の用語を使ってウォマックの作品を読み解く評論が冒頭にある(抄訳では割愛)が、1995年に発表されたウォマックの短編「That old school tie」には「カオス文献学(chaos philology)」なるおかしな理論が登場する。内容としては無関係なのだが、なにかインスパイアされるところがあったのかもしれない。




[ http://www.evolutionzone.com/kulturezone/futurec/Womack.interview ]

 あなたの本のタイトルは――アンビエント、テラプレーン、それからもうすぐ出るエルヴィッシーも――みなポップ・ミュージックに関連がありますね。執筆中に「雰囲気作り」のようなことのために音楽を聴いたりはしますか?それに、これもタイトルの選び方から見るに、あなたがロバート・ジョンスンやエルヴィスやフリップ&イーノを聴いていると考えてさしつかえないと思いますが、パンクやハードコア、スラッシュ、インダストリアルまたはコールド・ウェーブといったあたりには趣味の範囲はおよびますか?というのも、現代のミュージシャンを直接に連想させるような作品を書く作家たちが、大抵こっちの方のジャンルには全然興味を示さないからなんですが……

私は執筆中によく音楽を聴きますよ。同じくらいよくやるのが、音楽をかけながらTVもつけ、音声は心休まるヴォリュームにおさえておいて、ブレンドされた結果がどうなるかをみる、というやつです。その本にどんな風なムードを持たせたいかで何を聴くかが決まります。
 「ヒーザーン」を書いている間におもに聴いていたのは、女性ヴォーカリストをいろいろと、トーマス・タリスの合唱曲。「テラプレーン」に取り組んでいる間に聴いていたのは、ロバート・ジョンスンはもちろんですが、同じくらいヴォーン・ウィリアムス、エルガー、ベニー・グッドマン・バンドが1938年にカーネギーホールで演奏した「シング、シング、シング」、それとチャールズ・アイヴス。「アンビエント」に取り組んでいる最中にずっとかけていたのは――セックス・ピストルズ(これが「アンビエント」の始めの方に登場するバンドのモデルです。ちなみに曲は「ホリデイズ・イン・ザ・サン」)、MTV(私たちが、というか少なくとも私がNYに来たばかりの1983年頃には、少なくとも今よりはずっと期待と不吉な予感をはらんだ番組だったんですよ)、エルヴィス、そして第一章のリズムトラックとして流していたのが、ロバート・フリップとアンディ・サマーズのアルバム「I Advance Naked」のタイトル曲――この曲のビートこそが私が文章に添わせたいと思ったものでした。
 パンクやハードコアの類はずっと好きで、と言ってもクラブにはあまり通うほうではなくて、それともちろん、これは面白いと思うような音をラジオでは聴いたことがないですね。ニューヨークにはブラック・レインというインダストリアル/スラッシュ/アートバンドがいて、私はこのバンドの、いわば文学的な導師のうちの一人ということにしてもらってるんですが、彼らの音も気に入っています――けっこう激しい音ですよ。

 ラップについてはどうですか?いろんな意味で、真のポストモダニズム音楽ですが。

ラップに関しては、その重要性という点ではたしかに同意できます。もちろん、クオリティは急速に低下の一途をたどっているという見方が大方の一致するところですが。
 興味を持ってもらえそうな話がふたつほど。「アンビエント」の、オマリイとアヴァロンが地下鉄に乗っている場面では、運転手がアナウンスをすべてラップでやるというアイデアをあたためていました(結局、そうはしませんでした。一年ほど前にニューヨークの地下鉄の運転手が実際にそれをやっていたのを聞いたのがアイデアの元なんですが)。「テラプレーン」では、ルーサーが、コーカソイドの友人達が彼に際限なくラップのレコードを聴かせては民族の伝統に目を向けさせようとしていたのを追憶する場面を書きましたが、当時のWeidenfieldの編集者に、私の意に反して、知らぬ間にそれをブルーズに変えられてしまいました。80年代後半から90年代前半ごろの白人の大学生たちがラップに関心を持つなんてありえないという信念があったんでしょう。

 さて、それじゃ義務として、サイバーパンク関連の質問を。プレスは(SFも一般も)あなたのフィクションを正統なサイバーパンク作家たちのものと同列に並べたがり、ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングは、いずれもあなたの作品に賛辞を寄せて、それがあなたの本のカバーをきらびやかに飾っていますね。ご自身を(どうやらオリジナルのメンバーはみな去ってしまったと思しき)サイバーパンク・スクールの一員と見なしておられますか?

自分がサイバーパンクの一員だったとは思いません。1年半前までSFをまったく読んだことがなかったので(一方で映画は見ていましたが)、「アンビエント」と「テラプレーン」を仕上げるまで彼らの作品にはまったく疎かったんです。本当の話、「アンビエント」を仕上げるまでバラードの名前すら聞いたことがありませんでした。その後はギブスンとはかなり継続的に交流するようになり、スターリングと話す機会もありましたが。今はみなサイバーパンクから抜けてしまっているらしい当時の参画者たちについても、議論の余地の残るところではありますね。まあ最近になってようやくこの運動に目をつけたニューヨーク・タイムズにとっては、それで異論はないんでしょうが。

 グノーシズムからの影響に言及せずにあなたの作品について語るのは不完全だと私は思うんです。アンビエント達の信仰の中心をなす「神と善神」の概念はまさにグノーシス的な観念ですね。これはK・W・ジーターや、あるいはフィリップ・K・ディックの書くSFの文脈からきているものなんでしょうか?あなたの描くグノーシズムは本質的に積極的な(言い換えれば破壊的な)ものですが、グノーシズムに暗い、ことによってはファシスト的な側面をも見ているのでしょうか?

ジーターを読んだことはなく、去年「ヴァリス」を部分的に読んだだけですが、面白いけれども、自分のやっている事とはやや違うと思いました。私はあれをグノーシス的とは言いません。
 私の本における、特に「ヒーザーン」で顕著に現れている神と善神という概念は、明白にグノーシス的なコンセプトです。ただ、救世主の原理に関してはユダヤ教のコンセプトの方からより直接的に引き出してきていますが。グノーシス信仰もキリスト信仰と同様、当初のコンセプトが意味を失ってゆくに従って幾重にも再解釈の手を経た、本質的に都合のいい信念の寄せ集めであると私はみています。もちろん、グノーシス信仰とキリスト信仰では上書きの度合いに莫大な違いがあるわけですが、グノーシスの基本思想のほうがより歪曲されていると私は思います。おそらく故意になのでしょう。
 アンビエントたちはもちろんマキャフリイによる解釈を、アウトサイダーのための、いわばデミウルゴス(グノーシス信仰の創造神)と共にこの世にとどまることを余儀なくされ、そのなかで最良を求めようとする者のための宗教と受け止めたゆえに、受け継いでいったのです。このあたりのことについてバーナードとマキャフリイがジョアナにある種似たような助言をするというのは、私が意図して描いたところです。バーナードの方がよりファシスト的なバージョンになっていますね――その言葉の裏にある思想の違いほどには、言葉それ自体に違いはない。狂人からも筋の通った発言はなされうる、という事です。

 「現代モダン・タイムズ……ポストモダン反応」 このジェイクの(折り畳み式のチェーンソウであっという間に人をまっぷたつにした後での)台詞が、「テラプレーン」での私のお気に入りの一文です。 ジェイクはいろんな意味で、私たちの現代社会の論理的(ポスト文学、極度に暴力的、それでいて奇妙に情け深い)帰結であり、あなたのすべての作品の中で提示され、特に「ヒーザーン」では多くの行をさいて議論されている理念の体現と思えますが、このあたりについてもう少しうかがえますか?

ジェイクは、他の登場人物たちに顕れている特徴のあれこれを、それも極限にまでおしすすめた形でそなえ持っていて、少なくともこの特定の未来における、社会の諸側面の実証例であると考えています。その最大の疵こそが彼のもっとも深い強さであるゆえに、ジェイクは6編のシリーズにおける普遍的人物であると同時に中心人物なのです。ジェイクは自分を芸術家と考えていて、そこがたとえばオマリイと彼を分け隔てている。オマリイは自分の仕事と人生を切り離していながらも結局は、仕事が人生を乗っ取ってしまうのではないかと感じています。
 ジェイクは自分のやっていることを彼自身のレーゾン・デートルと見なしています。世界がどんなものであるか、どう反応するのが最善かを知っていると信じ、それゆえにただ受け入れるだけでなく、みずからの取り分をすすんでとり、そういう世界観からどんなプラスとマイナスが得られるかを考慮しています。彼には受け入れることができ、ジョアナには出来ない。彼は満足しており、アヴァロンはそうではない。彼はルールを固持するが、ドライデン一族はそうしない。彼は自分を閉ざすことが出来るが、オマリイやルーサーは、いかにそうしたいと望んでも、することはない。
 ジェイクを救いながらも同時に破滅へと導くのは、オクチャブリャーナに対して感じる愛情と、彼が彼女のなかにかきたてた愛です――彼の人間性を認めることは助けにはならず、彼を破滅させることになる、または少なくとも(実際には)彼自身にはもはや識別できないところまで彼を作りかえてしまう――だがそれは実は個人に訪れる救世主なのです。

 あなたの作品に遍在する生々しい暴力の場面についてお聞きしようと思います。生々しい暴力の表現を社会変化の欠くべからざる媒介物と見なしたバラードと同じ立場にあるのか、それとも、誇張によって社会の欠点を浮きだたせるための皮肉な「モラル・サタイア(風刺小説)」の一種として描かれているものなのでしょうか?あるいはそれ以外の理由が?

ああ、そうですね、暴力。いや、理由のないものではありません。「ヒーザーン」を読めば、暴力が起こるときにはそれが視界の外で展開していたり、あるいは、ふつうに予想されるものとは違う情動を引き出すためにそれが描かれていることがわかるでしょう。
 「テラプレーン」と「アンビエント」では、もっとも普遍的で無意味な暴力は、社会からその構成員に対してなされるものです。個人の暴力行為はそういう形で反応するように訓練された人間によってなされ、そういったものを見慣れすぎた人物の視点から語られています。私の登場人物たちに人間の生に対する冷淡さが見られたり、あるいは特定の人物が冷酷に思えたりしたとしても、それは自己防衛の結果なのです――彼らはみずからに許した以上のものを見ることに耐えられず、そしてすべてはあまりにも日常の出来事なので、暴力行為がTVのコマーシャル以上には大した重みを持たなくなっています。ときどき彼らには両者の区別がつかなくなります。

 合衆国の検閲官を自任するところの、数を増しつつある右翼の原理主義者たちとなにか論争はありましたか?あるいは逆に、「アンビエント」をシュワルツェネッガーの次の乗り物として使いたいというような申し出はありましたか?

アメリカのモラル擁護者たちとは論争の経験はないですね。アメリカとイギリスの文学擁護者たち、それから特にサイエンス・フィクションの純粋性を擁護する人たちとはちょっとやり合いました。
 憶測ですが、私のエージェントが言うには、ブルース・ウィリスのところの人間が「アンビエント」に少なくとも3回は目を通しているそうです。結論は皆さんにおまかせします。

 私が訊き残したことで、なにか付け加えたいことはありますか?

付け加えたいのは、これだけです。

  1. 私の本はすべて、その内部にも、それ自体にも、そしてシリーズ全体のより広い文脈においても、確かに構造を持っています。もし何も見つけられなかったとしたら、何かを見落としているということだから、読み直してみるべきです。
  2. 「ヒーザーン」の最後のパラグラフを、一字一句あのとおりに書こうと思わなかったなら、ああ書いてはいなかったでしょう。
  3. なにか疑わしい点が見られたとしても、私は自分のやっていることを完全に承知しています。