ジャック・ウォマック(1956- )
ケンタッキイ州レキシントン出身、現ニューヨーク在住。「ウォーマック」と伸ばすのが正しい名前の発音という説あり。
20代の始めにニューヨークに移り住み、書店勤めなどを経て、1987年の「Ambient」でデビュー。これまでに長編を7冊、短編を6作発表しているほか、2冊のノンフィクションに原稿を提供している。
長編「Elvissey」は1993年のフィリップ・K・ディック記念賞に選ばれた。
出版社ハーパー・コリンズの編集者としてニール・ゲイマンやテリー・プラチェットの作品を世に送り出したのち、現在はオービットUS社に在籍。(http://www.orbitbooks.net/author/jack-womack/)
Ambient | 1987 | ドライコ・シリーズ 第1部 |
Terraplane 「テラプレーン」(ハヤカワ文庫SF) | 1988 | ドライコ・シリーズ 第2部 |
Heathern 「ヒーザーン」(ハヤカワ文庫SF) | 1990 | ドライコ・シリーズ 第3部 |
Elvissey | 1993 | ドライコ・シリーズ 第4部 |
Random Acts of Senseless Violence | 1993 | ドライコ・シリーズ 第5部 |
Let's Put the Future Behind Us | 1996 | シリーズ外作品 |
Going, Going, Gone | 2000 | ドライコ・シリーズ 第6部 |
A Kiss, a Wink, a Grassy Knoll | 1991 | 初出:「Omni」誌1991年5月号 |
Twelvefourteen | 1991 | 初出:Steve Pasechnick編「Strange Plasma #4」 |
Lifeblood | 1991 | 初出:Ellen Datlow編「A Whisper of Blood」 |
Out of Sight, Out of Mind | 1991 | 初出:Ellen Datlow他編「The Year's Best Fantasy and Horror: Fourth Annual Collection」 |
That Old School Tie | 1995 | 初出:Ellen Datlow編「Little Deaths」 |
Audience | 1997 | 初出:Ellen Kushner他編「The Horns of Elfland」 |
参考:http://www.locusmag.com/index/s818.html#A19273
アメリカ南部地方の出身であることが自身の作品におよぼした影響については自覚的で、インタビューでもそれについての言及がある。
特に、作中に色濃い暴力は、作家自身の少年時代の反映であるらしい。
「ドライコ・シリーズ」で大きくとりあげられている人種差別の問題も、南部の風土を反映したものと言える。
ドライコ・シリーズ
故郷であるケンタッキイ州レキシントンへの愛着の薄さと対照的に、現在の住処であるニューヨークへの思い入れは深いようで、「ドライコ・シリーズ」でも、単にニューヨークが主要な舞台になっているだけでなく、番地をひとつひとつ数え上げるようにして変貌した都市の姿が描写される場面が幾度となく登場し、奇妙な観光案内といった趣がある。
ウォマックはSFをほとんど読んだことがないと公言している。デビュー作が世に出るまでにほんの一、二冊ほど、それ以降も大した数を読んではいないのだという。
この手の話をあまり額面通りに受け取るべきではないかもしれないが、彼の作品が一般のSFとは大きく違う方向からのアプローチで書かれていることは間違いない。
彼の本棚を埋め尽くしているのは、おびただしい数の「おかしな本」である。当人が誇らしげに「ウォマック・コレクション」と呼ぶこれらの本は、1950年代に山ほど出版されたUFOの実在を主張する研究書や、人体自然発火などの超常現象をまことしやかに論じた奇書などで、日本の「と学会」がとりあげる本と通じるようないかがわしさにあふれている。
彼自身はもちろん(誤解されないようにと本人も幾度も強調しているが)その手の本に書かれた内容を信じているわけではなく、人間の想像力と愚かさが生み出す驚異としての側面に純粋に魅了されているのだという。彼にとっては、おおむね常識をわきまえた人間が書く単なるフィクションよりも、常軌を逸した奇人達の手になるこれらの本の方がはるかにエキサイティングなのだ。
また、インタビューによれば実姉はいわゆるチャネラーで(笑っては失礼でしょうか)、天使からのメッセージを伝達することで生計を立てているという。このことが彼の創作に及ぼした影響についてもいろいろと想像せずにはいられない。
テクノロジーの進歩に目を輝かせるSFの書き手たちにも劣らず、ウォマックもまた、人類の可能性というものを信じている。だが、ウォマックが信じているのは人間の愚かさの持つ可能性の計り知れなさであり、その愚かさからどんなに異様で悲惨な社会も実現しうるという、揺るぎない確信であるようだ。
デビュー作がウィリアム・ギブスンらの絶賛をうけ、ウォマックの作品はポスト・サイバーパンク、またはサイバーパンクそのものとしてSFの中に分類されることになった。これには大きな宣伝効果があり、日本で翻訳が出版されたのもそれによるところが大きいと言えるが、実際の作品にはサイバー的な部分はほとんど無かったため、そういうものを期待した読者からは不満の声で迎えられることにもなった。作者自身もそういう文脈でとらえられることには居心地の悪さを感じていたようだ。
ウィリアム・ギブスンとは親しい交流があり、特にギブスンはインタビューでたびたびウォマックに言及するが、両者の共通点をあげるなら、SFに対する姿勢よりも、文体へのこだわりや同じ南部の出身であることの方が大きいのではないだろうか。
ジャンルとしてのSFとの距離感を表明する一方で、J・G・バラードやフイリップ・K・ディック、そして特にウィリアム・バロウズへの評価は高い。近年では編集者として他のSF作家の作品にたずさわるようになり、ジャンルとの関わりにも変化が見られるが、ガジェットへの耽溺をよしとしないなど、基本的な姿勢に変化はないようだ。