月刊OUTって、何だったのかな? 月刊OUTって、何だったのかな?

かつて「月刊OUT」というアニメ/サブカル誌がありました。
元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
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榎野彦さん( 12345
インタビュー:榎野彦(鷹見一幸)さん(その3)

公開日:2025年9月22日


ピクニックは北海道に:RIIさんの思い出
大徳「北海道に何しに行ったんだ?」RII「長靴買って帰ってきました」(笑)

「明るいイデオン」というイベント[36]に編集部が協力したという話がありました。

あれは俺が出されるはずだったの。ゆうきまさみさんの漫画の中に「えらいことになりました」「その男をひっこめろーっ!」っていうのがあるんだけど[37]、あれは俺の役だったんだ。だけど顔を出すのはまずいだろ?って言うんで、急遽なくなったの。それはゆうきさんにあとで言われた。「あれ、本当はね、あなたを入れるつもりだったんですよ」って。

RIIさんがそこで壇上に出て何かやったということが書かれてましたね。

"兄貴はなんだかんだ言って、意外と好きなんだよね。確かアウシタン集会か何かの時の 「後ろから来て、いきなり俺をハリセンでぶん殴って出てくる」っていうのは嬉々としてやっとった。

これ、暗根忌[38]の時にゆうきさんが描いてくださったRIIさんのイラストなんですが。これはどういう経緯で?

あるとき兄貴が、すごく仕事が詰まって、煮詰まっちゃって、いきなり「流氷を見たい」って言い出したの。「ああ、冬のオホーツクとかそういうのいいな。流氷見てさ、ぼーっとしてたいよね〜」なんて話をしてたら、いなくなっちゃって、いきなり北海道行ってた。俺もそれ知らなかったんだよ。 「何してたん?」「いや、流氷見て帰ってきた」って。
編集部で大徳さんが、
大徳「どこ行ってくるとも言わずいなくなったと思ったら、何やってたんだ?」
RII「いや、北海道行って」
大徳「何か買ってきたんだ?」
RII「いや、なにも買ってない。」
大徳「北海道に何しに行ったんだ?」
RII「長靴買って帰ってきました」(笑)
で、ちょうどそのときにゆうきさんも編集部にいたんだ。

あー、その場に居合わせたんですね。それを暗根忌のイラストに選んで描いてくださったと。


兄貴は、思い立ったら動くってことがあったよね。俺もそうだけど、面白そうと思ったらケツ軽いんだよね。引きこもってるくせにさ。

RIIさんについては大徳さんが書かれたような記事[39]もあるんですが、ちょっと古いころの『OUTジャーナル』に『RIIさんの暗い青春』[40]っていう記事があって(ページを見せつつ)、学生時代の話が色々載ってるんですね。これはCさんの繋がりで堀井(雄二)さんが知って、記事にしたのかなと思って、面白く読んでたんですけれど…。

この立ち読みで読破っていうのは俺と兄貴がやってたんだよね、静岡県の三島で有名な立ち読み兄弟だったから。俺、買う金なかったから、レンズマン[41]なんか『ファースト・レンズマン』から『レンズの子ら』まで立ち読みで読破して…。

え?あの小説のやつですか?だってこんなに厚いのが何冊もあるじゃないですか!

そうそう、創元の文庫本の。だって文庫本の立ち読みは何も言われなかった…漫画についてはいろいろ言われたけど。で、先日行ったら店の人が覚えててさ、「実をいうと作家になりました」って話をしたら、すごく喜んでくれてさ、「うちの立ち読みが役に立ったね」って。その本屋さんは火事でなくなっちゃったんだけどね。

俺らが出帆した動機:アニメがカオスだったあの頃
サブカルの売り方ってパターンがあったじゃない。でもその中にアニメはなかった。

うちらは、アニメというものが、商売としてマスコミなりなんなりに取り込まれて転がり始める、いちばん最初の時にいた。だからそのカオスがなくなって、かっちり固まってしまった後に、そういうセンスを持ってたとしても、掬い上げられない人ってのはいるんだろうなとずっと思ってる。

それまでは「アニメーションなんて、商売になるかあんなものは」っていう状態だった。OUTができて、アニメージュができてもまだ言われ続けてたからね、ずっと。ジブリが出てもダメで、アニメというものがちゃんと確立したのは、90年代・2000年ぐらいに入ってからじゃないのかな。

それまではね、サブカルはサブカルなんだけど…変なサブカルだよね。反体制でもないしさ。とはいえ商売にはなる。ただ、今までの売り方の枠の中になかったんだよね。映画にしろ、漫画・芸能にしろ、売り方ってパターンがあったじゃない。その中にアニメはなかった。だから困ったんだと思うんだよね。それでとにかく有象無象かき集めてさ、編集者の中にもアニメなんか知らない人がゴロゴロいたわけだから。

(OUTではないけど)鉄腕アトムのセルを見て『なんでこんなモノクロ持ってくんだよ、カラー持ってきなさいよ、カラーを』って言った人がいるんだ。モノクロセルっていうのがあるってことも知らなかったぐらいの人が、アニメーションの雑誌の編集をやってた。

戦前のアニメでモノクロってのは当たり前。ディズニーのミッキーマウスの最初はモノクロでしょ。(戦後は)映画はもちろんテレビ放映もモノクロだったので、セルを塗る絵の具もカラーではなく、グレースケールで分けられた黒・白・灰色の塗り分けだった。絵の具の数も少なくて安上がりだったしね。色がついているセルはカラーフィルム使った劇場用とかジャングル大帝くらい。鉄腕アトムも、エイトマンもセルは白黒。そういうのを知らない。アニメって言っても、テレビアニメ・キャラクターアニメに詳しい人はいっぱいいたけど、元からのアニメーション時代から知ってる人ってのは、あんまりいなかった。

俺はアニドウ[42]に在籍して『FILM1/24』[43]とかそういうのは全部持ってたし、『太陽の王子ホルスの大冒険』の上映会に行ったり、あのへんを全部おもしろがって、アニメーションの歴史の方から行ってる人間だから。

15分しかないのに15,000円くらいするスーパーマンのビデオとか、5万円した8ミリの『スター・ウォーズ』三部作とか買ったよ。だって見る機会がないんだから、サブスクのある今と違って。

当時は毎週週末に、浅草東宝で怪獣映画とかを上映してたんだよ、オールナイトで。それを見にいったときに面白かったね、みんな夜食用に隣にある吉野家で牛丼を買うの。で、3時ごろかな、あいだでインターバルが入るのよ。そうすると、映画館が吉野家の牛丼の匂いで埋まるの。そのときも確かいろんな漫画家さんがいてさあ、「なんでお前ここにいるんだ!」って。

仕事してなきゃいけないはずなのに。

なんせ当時、浅草東宝のフィルムが変色して、紫色のゴジラになってるんで、すげえなって。それでも見る機会がなかったからね。テレビなんかでやらなかったし、ビデオもなかったし。だから、そういう映画館に行くしかないの。

静岡の片田舎にいたんじゃ、おそらくああいう生活はできなかったと思う。だから、東京の文化資本との差ってのはあったね、と思う。今はそうでもないけど、当時は如実にあった。そういう環境下で育っていたから。で、日常に戻れば警察官なわけだよ。すごいギャップだよね。それを両方こなしてたからね。

その本職の方はどんな感じだったんですか?

22歳で一発合格でいきなり巡査部長になった。そしたら交番の人なんかみんな、俺より年上なんだ。そこで腹括って「何かあったらぜんぶ私が責任取りますから、責任取るためにこれ(階級章)星3つつけてますから、大丈夫ですからやってください」つって、もうあと何も口出さないでね。それだけで押し通してきた。

幹部学校に行って警部補になって、最後に警部になったときに身体を壊してやめた。倒れてさ、入院してさ、目が覚めたら枕元に副署長が書類を持って立ってんだよ。「これやってもらえないと困るんだ」って言われて、「あ、これは死んじゃうな」と思ってね。当時、よせばいいのに、電撃文庫と角川スニーカーから年に5冊ぐらい出してる。

その頃はもうすでにデビューされていたんですね。

もうすでにデビューしてた。


緑?の指の男の子:OUTを離れてから、作家デビューまで
秋本「そこまで見てっか、わかるんかい」榎「ああ、そこはそれマニアですから」

大徳さんもOUTから離れた後に樹想社[44]を作って、鳥山明さんとか鳥嶋さんとかと繋がりがあったから、集英社の仕事を編プロでやってた。まだみのり書房みたいに小ちゃいオフィスでやってた時に来た仕事が、『Kamedas』っていう、『こち亀』のファーストのやつですね。あれが来たときに「銃とかメカとか詳しいでしょ?ちょっとやってみてくれない」って俺のとこに話が来たんだよ。いろんなライターさんに頼んでたそうなんだけど、他のライターさんが逃げちゃった。

それで、どんどん俺んとこに来るんだよね…(苦笑)。だから、両さんの珍発明から、不動産屋から何から、俺が立てた企画はぜんぶ俺のとこに来て、俺がやるしかない(笑)。

やらざるを得ない。

派出所の中の図解だとかね。「これが両さんの書いた始末書」って、その始末書の書式は、本当の書式(笑)。向こうも本職がいると思わなかったんだな。

本当に適任ですよね。

初代Kamedasっていうのは、こんなに厚いんだけど、最終的に3分の1ぐらい俺が書いたんだ。

バイクから銃から何から、ネタ元がわかってたし…俺は古いビンテージバイクとか好きだったから。両さんの中に出てくるのよ、昭和30年代とか40年代のバイクが。そういうコマが面白かったら抜いてさ。「トーハツ」…「東京発動機」ってもうないメーカーね。「トーハツランペット」[45]って、右側のエアクリーナーの位置が初期型と後期型で違うんだ。それ見たら秋本さんが喜んじゃった。
「そこまで見てっか、わかるんかい」
「ああ、そこはそれマニアですから」

小説家としてデビューするまでの間は何やったかっていうと、いろんな雑誌のいろんなコラムで文章書いてるから覚えてないのよ。ペンネームも適当に思いつきで書いてたからね。Kamedasも榎野彦名義じゃないんだよ[46]

当時『コンバットコミック』[47]っていう戦争漫画の雑誌に連載持ってた友人の原作担当で『ノルマンディー航空隊』[48]っていう単行本が出たんだけど、「原案協力/榎野英彦」って知らないうちに名前が載ってて、「やべえよ」つったんだけど、「いや、いいじゃんいいじゃん」って。

作画グループの繋がりもあったし、月刊OUTがなくなった後も、変なところからライターの仕事が来るのね。ライター仲間の方の知り合いから「OUTっぽい切り口でなんかやってくれませんか」って言われたりね。

業界の中でそういうOUTカラーみたいなものが認識されてたんですか?

されてたと思うよ。普通に紹介するんじゃなくて、ちょっとひねりを入れる・変化球を混ぜて、面白く書いてくれない?っていうのはあったね。警察官やりながら、変なとこにばっかり顔を出してたから。

ウィキペディアの鷹見一幸先生のページには、和田慎二先生[49]の話が載っていますよね?

和田さんのメインアシスタントの人が作画グループ繋がりだったかな。何度か遊びに行って。で、『怪盗アマリリス』[50]のマネージャーの江の木、あのキャラクターのデザインは、当時の俺のキャラクターの絵を誰かが描いたのにそっくりだったんだよ。それを見たそのアシスタントが「これは榎野彦さんに似てる」っていうんで、「江の木」って名前になった。

あと作画グループの中に、中田雅喜(あき)さん[51]っていう人がいて。それからSFマガジンとかで描いてた横山えいじさん[52]。あのふたりは夫婦で、横山えいじさんなんか一緒になって馬鹿なことやってたから、横山さんの漫画の中にタイムパトロールって、太って凶悪な顔した警察官が出てくるんだよ。完全にあれ俺。

覚えてます。

いろんなとこでね、使われてんの。みなもと太郎さんなんか本名を出されたからね。

『風雲児たち』[53]に薩摩藩の使者で「木戸岡大屋の介」ってのが出てくる。
「また出てきた、なんでこんな奴を使うんですか」
「お前出すと、どんと大ゴマ使って出てくるから、まるっとページが埋まってありがたい」

聖さんもみなもとさんも、ばばよしあきさん[54]も亡くなっちゃったから、作画グループは実質そこで終わったんだけどね。作画グループって変なグループで、大人も子供もいろんな人が集まって、営利じゃなくてやってた漫画研究会でさ。そこでいろんな人と繋がりがあったね。

再就職先は小説家:作家デビューと『アウトニア王国物語』
榎「実は堀井雄二さんのコーナー名なんで、使えませんよ」編「もう編集会議を通しちゃいました (・ω<) てへぺろ」

作家としてデビューしたのが40歳。それがね、デビュー作(『時空のクロス・ロード ピクニックは終末に』)は電撃文庫でいちおう最終選考(1999年 第六回電撃ゲーム小説大賞)まで入って、そこで落ちたんだけど、漫画家のこいずみまりさんに読んでもらったら「これ面白いから、私の知り合いに角川の編集さんがいるから、角川に持ってかない?」って言われて。

電撃文庫と角川は当時、例の角川のお家騒動[55]で分裂してて、すっごい険悪な状態でね。電撃文庫は主婦の友社借りてやってて、スニーカーはちゃんと角川本社に残ってる。そしたら角川の編集さんから電話かかってきて
「これどうしたんですか」
「いや、最終選考で落ちまして」
「じゃあ、うちで出しますから、持ってきてください」

あ、これは面白いなと思って、角川のスニーカー編集部に行ったら、そこにみのり書房の時に知り合いだった人がいて、
「あれ?どうしたの。あ、そうだ、うちでさ、今度ホラー関係出すんだけどさ、なんか書いてくんない?」
「ああ、いいですけど…」
なんて話をしてたら、そこへ角川スニーカーの編集さんが来てさ。

「何やってんですか?」
「いや、ライターの打ち合わせ」
「ライターじゃありませんよ、この人」
「え?作家になんの?」
とか言われた。変に知り合いがいたからね。

そのちょっと後に、昇進のために警察の幹部候補学校に入校することになったんだけど、完全な入寮制で、3ヶ月ぐらい入ってたのかな。それで戻ってきたら電撃の編集さんから電話があって、
「最終選考は落ちたんですけど、うちで『電撃hp』[56]という雑誌があって、そこに一挙掲載したいんです」って言われて。
「えっ、私、実をいうと、落ちたんだなと思ったんで、スニーカーに持ってっちゃった。スニーカーに話が通ってるんですか?」
って言ったら、むこうで大慌てになって(笑)。そこで初めてスニーカーの編集さんと電撃の編集さんで集まって。決裂してから初めて、電撃とスニーカーが話をした。本当に犬猿の仲で、それはえらいことになるっつってたんだけど。

そしたら、角川の井上伸一郎さん[57]とかあのへんが、
「何?木戸岡?ああ、なんだ弟さんかい」
要するに兄貴の知り合いだったんで、それはなんとかなるだろう、と。
そしたら今度は、角川の編集さんが来て、
「電撃の方で応募したんだから、電撃の方で出すってことになりました。ついては、うちの方で何かありませんか?」

そんなこと言われたって、『時空のクロスロード』は俺が生まれて初めて書いた小説なんだから。Webで連載中の『アウトニア王国物語』[58]のテキストしかありませんよ、とりあえずあるはあるんですけどね、つって渡したの。そしたら
「これでいいですから、書いてください」
それであれが『でたまか』になったの。

当時どういう経緯で、Webで『アウトニア王国物語』を書かれたんですか?

あれはなんなんだろうな。当時、『アウト復活委員会(仮)[59]』のホームページにチャットルームがあって人がいっぱい集まってた。俺も面白がってそこに行った時にチャットでいろいろ書いて、そしたら「榎野彦さんが来た」つってみんな面白がって、っていうのがあったんだよね。

そういえばチャットが盛り上がってた時代がありましたね。

そうそう。オフもよくやってた。

そうか、それじゃあちょっと一発、小説でも書きますかっていうんで、『アウトニア王国物語』っていうのを、じゃあOUTをネタにして書こうって書いて載せてたんだよね。

それは全くの趣味で?激務の合間に?

そうそう、そうそう。

そこからタイトルが『でたまか』になった理由をお聞きしてもいいですか?

うん。これはね、実は『でたまか』っていうのは、物語の中で出てくんのよ。

「でたとこまかせで行こう」。

それは「行き当たりばったり」じゃなくて、ありとあらゆる事態を考えて、それをどのパターンで選んでもいいように、あらかじめ考えてやっておくことだと。それで、あと何かが起こった時に、これだこれだこれだ、って的確に選んでいけばいいっていう。だから「でたとこまかせ」だけど、投げやりなもんじゃないよ…っていうのが物語に出てくるんだよ。

そしたら編集さんが、この『でたまか』って言い方をすごい気に入っちゃって、「タイトル、これにしましょうよ」って言うんだよ。だから俺、月刊OUTを持っていってさ、「実を言うと堀井雄二さんのコーナーのタイトルなんで、これ使うわけにはいきませんよ」って。だけど「でも編集会議を通しちゃったから」って。いやー、ねえな〜と思って、もう八方手尽くして、大徳さんとかいろいろ頼んでさ、で、直接ではないんだけど堀井さんになんとかやっとツテとったんだよ。

そしたら堀井さんから「タイトルはたいへんですね」って。「私も『おならのブルース』[60]っていう名前を本につけられたことがあります」って。タイトルの大変なのはわかりますから、どうぞご自由にお使いくださいって、堀井さんから一筆もらってさ、あ〜、良かったなと思って。

でもそのあと本が出たら、パクリだなんだって、ガンガン来てさ。知らないからね、鷹見一幸が榎野彦だってことはね。

そもそもそれが伝わってない。

あ、そうか。僕らは登場人物の元ネタとかも知ってるから、読むたびに、この「ラインアート」っていう人物は糸で絵を描くあの投稿常連[61]かな、とかいろんなことを思うんですよ。同じく投稿常連の、わかめ酒さんの名前なんかもね。

ケルプワインさん。あいつもけっこういいキャラになった。

マリリン姉御とかも。

そのへんを知らない人は、疑問に思うようなこともあったかもしれないですね…。

だけど、説明できないしさ。当時ばらすわけにはいかなかったんだよ。榎野彦は警察官だってことは知られてるし。だからこの「鷹見一幸」という人間は、榎野彦から原作をもらった別の人間ですって、もういっこ別のキャラクターを作ったの。デビュー作の『時空のクロスロード』もそういうことになってるよ。この時はネタ合わせぐらいの時まで兄貴とやってたんかな。兄貴は「いいのかよ!?こんな書いて」とか言って笑っとったけどね。


実はね、『でたまか』の最初の第1部は、3冊で打ち切りだったんだ。『でたまか』って、わけもわかんないじゃん。だから売れなかったんだよ。それにメディアミックスとかじゃないタイプの話だから、角川のスニーカー編集部としても「これはダメだな」って感じだったんだよ。 でも担当の編集さんがすごく惚れ込んでくれてね。最後の終わらせ方を、わざととんでもないぶった切りの終わらせ方をしたんだ。「編集長だまして出しますから(笑)これでいいです」って。

それで本になったらアンケートカードがすごかったのね、「これで終わらすな!」って。それで「これだけアンケートカード来てますから」って担当さんが頑張って。「じゃあ続けようか」「続けるからにはがっつりやりましょう」って形になって。そしたら、13冊だよね。

『でたまか』の第1部っていうのは一人称、マイドの視点で書いている。2部からは完全な三人称で、もろSF小説。なんせ、2部の最初は主人公はいっさい出てこないというね。「彼は何をしているんだろう」っていうところから始まって、最後の最後にちょろっとだけ出るんだ。そしたら、「面白い、こういうので行きましょう」ってなって、あとは繋がった。

ただ、それなりに人気もあったんだけど、全くアニメとかそういうような話はなくて。 電撃の方もそうだね。一切メディアミックスの話がない。『時空のクロスロード』は、第5版第6版ぐらいまで行ってるんだよね。でも全然ないね(笑)。

まだ時代がそういう感じでもなかったんですかね?

…のもあるし。アニメのプロデューサーの人だったと思うんだけど、「お前さん、書きすぎるんだよ」っていわれた。

「二次創作にしろなんにしろ、普通は読者の想像の余地があるもんなんだけど、その読者が想像するようなとこまで、既にお前さんの中にあるだろう?」
「端役のキャラクターであっても、それまでどういうふうに育ってきて、どうなって、この後どうなるか。書けって言われたら、書けるだろ?」
っていわれたから、
「書きはしませんが、全部いちおう頭の中で考えてあります」
「それが読者にはわかるんだよ。そうするとね、(二次創作が)書けないんだよ。萎縮するってのはおかしいかもしんないけど、「これに手を出しちゃいけないな」っていうふうになる」

だから、二次創作もないの。アニメ化とかコミカライズってのは、いわば二次創作なわけだからね。そこに、アニメに関わる人…アニメーター・文芸の人とか作家のノリが乗るわけでしょう。コミカライズも漫画家さんが乗るわけじゃない?その乗る時に、本編の方が強すぎると、喧嘩したくないっていうか…。

遊びを乗っけられない、みたいな?

そうそう。だから、「はっきり言って、お前さんラノベじゃねえよ」って言われたんだけどね(笑)。

飛べ!僕らの架空戦記:RIIさんとの合作
言及されてることがあると、元をたどってっちゃうのね。そうするとだんだん、だんだん…。

で、なんだかんだ言って、俺がデビューしたころに兄貴も「じゃあ俺も書くか」なんつって書き出したのが、架空戦記の『第七艦隊』[62]。あれもネタを2人で出して資料を集めて、兄貴が書いて、学研から出た。

架空戦記もそのころいろいろあったんだけど、戦艦大和と山本五十六と零戦がでてこないとダメでね。兄貴と二人で「それ全部やめにしよう」って決めて。大和は沈む。堀越技師[63]は結核にして、零戦はなかったことにしよう。山本五十六[64]?ああ、重症。人事不省でわかんなくしよう(笑)。

その筋の人ががっかりするような架空(笑)。

そういう、両手両脚を縛られた状態でどうやってやるかっていうのが面白いんじゃないか?って。だから今でもそういう架空戦記マニアの間では伝説になってるよね。

ああ、なるほど。

兄貴と2人で考えたのは、「架空兵器は出さない」っていう縛りなの。すごい性能を持って出てくるのもあるんだけど、これは何かっていうと、試作品があるのよ。例えば潜航艇…要するに潜水艦なんだけど、バッテリー[65]を山ほど積んで、水中の能力・速度だけはすごい出るっていう。そのかわり充電するのに3日かかるとかね(笑)。で、実は日本軍は試験用でそういうの作ってるの。
「試験用で作ってるのがあるってことは、あるってことだ」

そこまでは使えると(笑)。

電探(レーダー)はあるかもしれんけど、でかい。日本のレーダーってのは小型化できなかった、真空管だし。すごいでかいじゃないか、あんなものを機上レーダーになんかできないぞ。

「じゃあ、乗せられる飛行機があればいいんだ」っていうんで、ユンカースが作った「九二式超重爆」[66]っていう、『未来少年コナン』に出てくるギガントみたいな爆撃機が日本にあったんだよ。これを倉庫からひっぱり出して、この機内に搭載したものとして、早期警戒機に使えばいいって。だから、架空兵器は出さないけども、できたかもしれないんだったら、できたんだ(笑)。そうやって書いたのが『第七艦隊』。

そうこうするうちに、なんでか知んないけど、KADOKAWAの編集さんの繋がりでいきなりハヤカワから連絡が来て、「野田昌宏さんの『銀河乞食軍団』[67]をリメイクしたいんですけど書きませんか?」って言われた。ありゃま、とんでもないもんが来たなと。それで、兄貴と2人で話を伺いに行って、「いいですね、 じゃあやりますよ。でもどうなっても知りませんよ」つって、兄貴がメインで書いた。ところが3冊目くらいの時に、脳梗塞になってバタっと止まっちゃって、俺がそれをなんとか終わらせた。

そのあとはもう完全に発病しちゃって、半身不随で、ずっと俺のところで療養みたいな感じでね。10年前だよな、2014年12月に死んだんだけどね。仕事ぶりから見たら、酒とタバコはものすごかったから、長くは生きねえだろうなと思ってたけどな。

話が戻るけど、OUTの画面の構成は版権料が「ページいくら」だったの。使った画像の数じゃないのね。だから細かく割っても、一面ドンとなっても、払う版権料はいっしょ。だったら割った方が得じゃないかって、OUTのカラーグラビアのページで、細かいページだなと思ったらぜんぶ兄貴がやってた。

それもどうやって指定するかっていうと、16ミリフィルムから切り出して、それをグラビアの印刷の方へ出して「ここに入れてくれ」。当時のやり方は、レイアウトが先に決まるのね。ここにイラストが入って、ここに画像のこれとこれが入って…キャプションはポイント○の字で、何行で何字っていうふうに。その何行何字のレイアウトに合わせて文章を考える。これがすんげえ大変なの。ぱっと書き飛ばすってわけにはいかないんだよ。もう決まっちゃってるから。これを兄貴は朝まで寝ないでやってた。

当時、編集部のあったビルの屋上にプレハブの物置があったのよ。そこに入って泊まり込んでね。大徳さんが困っちゃってさ、「それは消防法の問題になるんだから、ダメだよ」って言うんだけど、しばらく泊まり込んでてさ。それができなくなって困ったりして…。すごい根詰めちゃうんだよ。そういう人間だったから、これは長生きせんわな、と思ったけど。

そうやって作ったのが、OUTのこんな細かいレイアウトの記事。あの当時のアニメ雑誌を見るとわかるよね、『ジ・アニメ』でもなんでも、そっちは見開き…要するに大判の雑誌だし、バンと開いた時の効果を狙って、でかいキャラクターものをボン!

OUTは…ボンとある。その下にちまちまちまちま…。それもいちいち、マニアの心をくすぐるようなネタを持ってきて並べるわけ。そうすると画面の密度が濃いのね。すると、立ち読みで「パッと読んで」じゃ済まないんだ。立ち読みで済まずに、買わずにいられない本を作ってた。それが当時のOUTの方針でした。

なるほど、『ミンキーモモ』[68]のページとか、ものすごい。文章もカラーが出てますよね。

特集なんかする時に、兄貴は例えば谷山浩子[69]の曲の題名を引っ張ってきたり、ビートルズの題名を引っ張ってきたり、見立てをするわけ。それに合わせた状態で、シーンとかセリフだとかコマを選んでくるわけよ。…それを最初に思いつくまでが大変でね。

RIIさんは「ファンサイクロペディア[70]」っていうページをずっと構成されていましたが、とにかく知識がすごいんですよね。あらゆる嗜好を持った読者からおすすめ作品がやってくるじゃないですか。僕なんか見ても全然わからない、例えば3割ぐらいしかわからないのに、「普段はわからないのは2割くらい」なんて書いてあって。8割わかるんですか、 あなたは!?っていうぐらいなんでも知ってる。

そうそう、そういうのがあった。本マニアだったからね〜。引っ越した時、三島から持ってきた4トントラックの荷物のなかで、家財道具は数点、あとぜんぶ本(笑)。2階に兄貴用につくった部屋にぜんぶ積んだら床が抜けるんじゃないかと思ったら、実際ちょっと傾いちゃって、慌てて下におろしたりした。来る時にだいぶ処分したんだけど、それでもすごかった。兄貴が亡くなった後に、持ってた本とか全部…また結構ダブるんだ…全部処分してね。

興味があるというのじゃなくて、ちょっと言及されてることがあったりすると、元をたどってっちゃうのね。俺もそうなんだけど。そうするとね、何かについてちょっと書いた本があったりすると、辿ってったやつがだんだん、だんだん…。

そのかわり知らないことは何にも知らないの。芸能関係とかスポーツは全くダメだしね。俺もそうなんだけどさ。兄弟でそういうことやってきたから、だいたいやってることは似てるよね。

兄貴はそういう人間だったし、ある意味パラノイアっぽい部分があったよね。そのぶん実生活はもうボロボロよ。南方熊楠[71]って、こういう人間なんだろうな(笑)。発病したあと、越後湯沢の俺の仕事場で最初に倒れたんだ。そのまま脳梗塞で入院して…当時若かったからリハビリが効くのかなと思ったんだけど、結局左が動かなくてね。

やっぱりタバコはやめられなかったから、あれが原因なんだろうな。そのうちにちょっとひどくなって…それでもね、パソコンいじって原稿みたいなものを書いてたよね。実は断ち切りみたいな文章とかテキストは山ほどあるんだよ。

途中まで書いたような?

メモみたいなやつがね。けっこう面白いのもあって、俺が書いてもいいなと思ったのもいくつかある。『臥煙戦記』[72]つって、町火消が幕軍歩兵になる物語を落語口調で書いた話を「カクヨム」[73]に載せてるんだけど、それ実は兄貴と俺で書いてて、「第七艦隊」の次に書くつもりだった話。『臥煙戦記』「鷹見一幸」で検索すれば出てくるよ。

若旦那が士分に取り立ててもらえるっていうんで、幕軍に志願しちゃって。そしたら、こんなもん入れたら三日もしないうちに死んじまうからっつうんで、火消しの親玉と若旦那を一緒にくっつけて幕府軍に入れるつって、『一人じゃ大変です』って言ったら、使い走りの八ってやつまで一緒にくっつけて、三人いれば徒党が組めるって、三人で幕府軍に放り込まれるって話。完全に文体は江戸落語!

それは面白そうですね(※SIIは落語好き)。

最後のシーンは2人で決めててね、取材にも行った。最初は江戸の火消しが最後に幕府軍の歩兵になって… 彰義隊[74]とはまた別なんだよね。大鳥圭介に取られて、宇都宮まで落ちてって、最終的に宇都宮戦争[75]ってドンパチやるんだけど、主人公はそこで死んじゃうんだ。

死ぬときに、官軍から「賊軍を弔うのはならぬ」っていうのが出てきて、だけど、
「しょうがねえ、無縁にするのは可哀そうだ」
「名前、なんて言うんだ?」
「名前なんてものはねえんだ。俺たちは江戸を守る火消しだ。江戸っ子だ。ただ、墓碑銘に江戸と書いてください」
って言うんだよ。で、その若旦那に、「これから先はヤットウ(剣術)でもねえ、ドンパチでもねえ、あんた、あの親父さんに頭下げて、商売でしっかり江戸の町をまた戻してくだせえ」っつって、死んでいく。

そこで最後に、その石碑、ちっちゃい石に「江戸」って書いた。本当にあるんだよ、これ。江戸ってしか書いてない…俺が、江戸の人間がここで死んだんだって。

江戸が東京に名前がかわる直前の話で、最後の江戸っ子の心意気で死んでった人間だよね。その前に延々と江戸の風物だとか気質を書いてる。それがあるから、最後のそのオチがわかるっていう。

これ、書くだけ書いてあって、どっかで拾ってくんねえかなと思うんだけど、しょうがないからまだ途中までなんだけどとりあえず「カクヨム」に載せてるけどね。これは兄貴が最後まで書いてたから、本当は出したいんだ。何だったら自費出版で出すかな。

前の人インタビュー集トップ次の人
榎野彦さん( 12345

[36] 明るいイデオン : 映画「伝説巨人イデオン」について、暗い作品というイメージを逆手にとり、ファン参加型の明るいイベントなどを通じておこなった一連の宣伝キャンペーン。晴海見本市会場で行われたイベントでは富野総監督と湖川作画監督のほか、小牧アニメック編集長やアウト編集部RIIなどが壇上に登場した。「フィナーレの、『イデ音頭』ではスタッフ・ファンが一体となってのフィーバーぶり」('82年7月号より)

[37] 「えらいことになりました」 : 『イデオンマイナーノート』('82年7月増刊号『アニパロ・コミックス1』)。該当シーンには、代わりにフランケンシュタイン風の大男が登場している。

[38] 暗根忌 : '15年10月11日、新宿のトークライブハウス「LOFT/PLUS ONE」で開催されたイベント。前年11月に亡くなったRⅡさんの追悼式という体裁で行われ、観客も喪服で参加。実弟の榎野彦さんが故RⅡさんに扮して登壇した。当日は錚々たる方々が「参列」されたほか、ゆうきまさみ先生から故人を偲ぶイラストが寄せられた。 暗根忌

[39] 大徳さんの記事 : '87年5月号『不滅のOUT10年史!!』など。「酔って、なぜOUTはこんなに売れるんだ、と机を叩いて怒った」「出社しないので編集部員が下宿を訪ねたが、部屋も本人も真っ暗だったので気づかれず、行方不明かと大騒ぎになった」など多くの逸話が書かれている。

[40] RII氏の暗い青春 : '81年10月号『OUTジャーナル』(堀井雄二)。「高校時代の休日は朝から本屋に行って文庫を2冊立ち読みで読破した」「岩波新書を読破し中公新書に手を出した」「酒グセの悪さにより仲間に加茂川に放り込まれた」などの逸話が載っている。

[41] レンズマン : E.E.スミスによるSF小説シリーズで、スペースオペラの先駆けとなる作品。年代順に読んだとすれば400-500ページほどの文庫本を5冊立ち読みしたことになるが…。

[42] アニドウ : '67年に東映動画(現東映アニメーション)・虫プロ・東京ムービー(現トムスエンターテイメント)・スタジオゼロ・TCJ(現エイケン)・Aプロダクション(現シンエイ動画)などに働くプロのアニメーター達によって設立された組織。

[43] FILM1/24 : '71年より発行されたアニドウの会報。

[44] 樹想社 : 元OUT編集長大徳哲雄がみのり書房退社後に設立した、漫画・アニメの映像・出版物を手がける編集プロダクション。設立は'88年。

[45] トーハツランペット : オートバイメーカーの東京発動機より発売されたバイク。同社は'64年に会社更生法が適用され、その後はトーハツ株式会社として船外機などを生産する。『Kamedas』330ページ「クラシックバイク大集合!!」で『こち亀』に登場したビンテージバイク9台が紹介されている。なお、全て年式付きで掲載されている。

[46] Kamedasも榎野彦名義じゃないんだよ : 『Kamedas』は'93年集英社から刊行された『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の大辞典(同じく集英社刊行の『イミダス』という現代用語辞典からの捩り)で、厚さ3.5cm/700ページ弱というまさに辞書のような冊子の中に、当時刊行されていた76巻までのネタで埋め尽くされている。奥付のライター陣には「榎野邦彦」のが見える(他にも見覚えのある名前も)。

[47] コンバットコミック : 日本出版社から刊行されたミリタリー系の漫画雑誌。'88年-2001年。

[48] 『ノルマンディー航空隊』  : 鋼屋(はがねや)による漫画作品。イースト・プレスより2000年7月刊行。主に'96年ごろのコンバットコミック(日本出版社刊)掲載作品を収録。

[49] 和田慎二 : 漫画家。少女漫画にアクションやサスペンスの要素を取り込んだことで知られる。代表作に『スケバン刑事』『ピグマリオ』『怪盗アマリリス』など。

[50] 怪盗アマリリス : 和田慎二による漫画作品。『花とゆめ』(白泉社)にて、1991年1号から1995年22号まで連載された。

[51] 中田雅喜(あき) : 漫画家、小説家。代表作に『純情ももいろ日記』。

[52] 横山えいじ : 漫画家、イラストレーター。『S-Fマガジン』に'98年より『おまかせ!レスキュ〜』を連載中。ハヤカワ文庫のR・A・ラファティやルーディ・ラッカー作品などの表紙は忘れがたい。『九百人のお祖母さん』は表紙も内容も傑作。

[53] 風雲児たち : みなもと太郎による漫画作品。関ヶ原の戦いから幕末にかけての群像劇をギャグ漫画の手法で描く。2018年にテレビドラマ化、2019年に新作歌舞伎化される。

[54] ばばよしあき : 作画グループ代表。2016年6月21日逝去。

[55] 角川のお家騒動 : '92年9月、角川書店社長・角川春樹と副社長で実弟の角川歴彦が路線対立。辞任させられた歴彦がメディアワークスを設立したのに伴い、歴彦が社長を務めていた角川メディアオフィスの従業員も大挙して退社、メディアワークスに移籍した。 角川スニーカー文庫は'89年に角川書店より創刊、電撃文庫は'93年メディアワークスより創刊。

[56] 電撃hp : (でんげきエイチピー;'98年12月〜'07年10月)メディアワークス(現:アスキー・メディアワークス)から発行されていたライトノベル中心の小説誌

[57] 井上伸一郎さん : 元アニメック副編集長(㏋)。'85年、副編集長として月刊ニュータイプの創刊にかかわる。本文中の時期(2000年ごろ)の直後に角川書店アニメ・コミック事業部長、さらに'07年には角川書店社長に就任している。

[58] 『アウトニア王国物語』 : 後述の「アウト復活委員会(仮)」で連載されたWeb小説。本文中にある通り、OUT関係者や投稿者の名前をもじったキャラクターが多数登場する。のちに『でたまか』シリーズとしてリメイクされ、全16冊刊行されるに至るとは実に感慨深い。

[59] アウト復活委員会(仮) : 月刊OUT休刊直後、読者によって開設されたファンサイト。一時期は当時流行っていたWebチャットに元読者が集まり賑わいを見せていた。現在はほとんど更新されていないが、時々伝言板に懐かしいPNが見られたりする。  アウト復活委員会(仮)

[60] 『おならのブルース』 : KKベストセラーズ発行。「東京六大学の漫画研究会に面白ジョーク本を書かせる」という企画の第1弾として早稲田大学漫画研究会に話が持ち込まれた。堀井雄二やヤナケンなどが執筆している。

[61] ラインアート : 『でたまか』の登場人物。元ネタはOUT投稿常連、首藤真司氏。

[62] 第七艦隊 : 歴史群像新書『大日本帝国第七艦隊』シリーズ3冊がGakkenより刊行されている

[63] 堀越技師 : 堀越二郎は零式艦上戦闘機(いわゆる零戦)の設計者として有名。のちに宮崎駿の漫画およびアニメ作品『風立ちぬ』の主人公のモデルとなった。

[64] 山本五十六 : 日本海軍の軍人・元帥。太平洋戦争において真珠湾攻撃を立案・指揮する。また敗北したミッドウェー海戦では連合艦隊司令長官であった。

[65] バッテリー : 電気で動く輸送機関の歴史は実はかなり古く、電池を積んだ電気自動車は1830年代に実用化されていた(ガソリン車の誕生は1886年)。

[66] 九二式超重爆 : 1930年代に大日本帝国陸軍が試作した超大型の重爆撃機で、設計元はドイツのユンカース社。当時としては世界最大級の機体で、その大きさと重さから「超重爆」とも呼ばれたが、時代遅れと判断され、6機のみの生産で終わった。

[67] 銀河乞食軍団 : 野田昌宏によるスペースオペラSF。「乞食軍団(=ならず者集団)」のような雑多な人々が、銀河を舞台に冒険・戦争・政治・陰謀に巻き込まれる、壮大かつコミカルな作品。野田昌宏はSF界では「野田大元帥」とも呼ばれて慕われたが、2008年に逝去。鷹見一幸による新シリーズ「黎明編」はハヤカワ文庫JAより4巻刊行されている。

[68] 魔法のプリンセス ミンキーモモ : 葦プロダクション制作による魔法少女アニメ。第一作は'82年-’83年。キャラクターデザインは芦田豊雄。『魔法の天使クリィミーマミ』とともに、第2期魔法少女ブームを形成し、美少女キャラクター人気の文脈でも語られる作品。

[69] 谷山浩子 : 歌手・シンガーソングライター。デビュー後、'74年のヤマハポプコンに入賞し注目を集める。時に闇を滲ませるファンタジックな詩と曲調、独特な歌声が固定ファンに支持される。NHK「みんなのうた」に取り上げられた楽曲も多い。'80年代には「マイナー」「暗い」というイメージで、中島みゆきと対比されることが多かった。

[70] ファンサイクロペディア : 毎月のお題に基づいておすすめ作品を投稿するコーナー。選者はRII。'89年1月号-’93年6月号。当初は「日渡早紀」「那州雪絵」など作者別の作品紹介だったが、徐々に「雨」「お金」などのキーワードにちなむ作品紹介となっていった。「人気投票ではなく、面白い作品をみんなで教え合って仲間を増やす」のが方針で、膨大な数のおすすめ作品を掲載していた。

[71] 南方熊楠 : 明治〜昭和期の博物学者・民俗学者・粘菌研究者。「知の巨人」とも呼ばれ、記憶力と引用力は圧倒的であり、広範な知識と独特の思考方法により、アカデミズムに属さずに独自の学問世界を築いた。

[72] 『臥煙戦記』 : 臥煙(がえん)は江戸時代の役屋敷に寝泊まりした火消し人足のこと。乱暴なものが多かったところから、ならずものの異名でもあった。江戸落語に臥煙の息子と両親を描いた『火事息子』という噺がある。

[73] カクヨム : KADOKAWAと株式会社はてなが共同開発した小説投稿サイト。 カクヨム

[74] 彰義隊 : 幕末の動乱期、特に戊辰戦争(1868年)の際に、旧幕府方として新政府軍に抵抗した武装集団。上野・寛永寺での上野戦争が有名。

[75] 宇都宮戦争 : 戊辰戦争の一環として1868年5月に宇都宮周辺で行われた戦闘。江戸城無血開城ののち、大鳥圭介に率いられた旧幕府軍は北関東・東北方面にて抗戦しようとしたが、宇都宮城での敗北で会津方面へ転戦、白虎隊で知られる会津城籠城戦へと進んでいく。


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