元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。

インタビュー:2025年6月22日
公開日:2025年8月x日
皆さんご存知のとおり、俺がアウトの編集部でいちばん若手だったわけで、それがもうすぐ60歳だからね。
俺とOくん[1]がバイトで入ったときに、読者の反応・雰囲気を振り返ると、同世代が編集部に入ったって認識があったのかなって思うんだよ。で、その後に読者の飲み会に参加させてもらったら、若い子もいたし年寄りもいたけど、ほぼほぼ同世代でさ。
そもそもどういう経緯でOUTに関わられたんですか?
俺は’66年生まれだから、ヤマトの時は小学校の低学年で、本放送は見てないのね。今でいうオタクっぽいことは子供の頃はしていなくて、普通に見てただけなんだ。それがやっぱりガンダムとか、マクロスも含めてどんどんはまっていって。ガンプラなんか、ガンダム・ザクじゃなくて、ズゴック[2]が好きだった…当時のガンプラ初期のモデルでいちばんプロポーションがいいんですよ。そのぐらい、直球じゃなくて変化球が好きだなっていう人だった。
でもアニメ誌、アニメージュ[3]の創刊号とかは買ってないんですよ。OUTも創刊号なんか当然買ってないし、ヤマト特集[4]も買ってないし、あとからそんなのあるんだって知って探して買うんだけど。だけどガンダムにはまってたから「ガンダムセンチュリー」[5]は持ってたんだ。それから何冊かアニメージュ、アニメック[6]も古本でも買ってたし。
で、大学に行くときに、地元の大宮から静岡の大学に行くんです。それで一人暮らしすることもあって荷物を持っていけないじゃん。そのころアニメが下火になったこともあって、俺はそろそろアニメから足を洗おうと。荷物を少なめにして、一回いろんなものを手放した。
大学で、家賃を安くするために先輩と一緒の下宿に住むんだけど、その先輩が漫研の人で、なぜか漫研に入ることになるわけ。静岡って当時、民放が2局だったかな、少ないんですよ。そうすると、みんなそれぞれの地元の友達から…東京とか大阪で放送したビデオ、VHSとかを送ってもらうの。それで誰かの部屋に行って見ながらみんなで飯を食うっていうことをやってた。あの頃は「うる星」とか見てたな。それをみんなコマ送りにして見るんだ。「今日、作監だれだれなんだよ!」って。そこで俺は、そんなに濃いファンじゃなかったのが、アニメにはまったんだ。ただ、少しはアニメのこと知ってるけど、リアルタイムっていう意味では全部は知らない。
そんな大学生活を過ごして、実家に戻ってきました。さっき言ったように、自分は改めてアニメとか漫画とか好きになってるのに、家に帰ったら、大学に行った時にもう手放してるから、そんなものは残ってないわけですよ。で、普通の会社に勤めてて、1年ぐらいで辞めちゃったんだけど、当然そのときにグダグダしてたら親から怒られるじゃん。
そしたら朝日新聞の求人広告欄に「みのり書房」ってあって、「ん?」と思ったんですよ。なんだこの文字、知ってるな。で、自分の本棚に行ったら、唯一残してあった「ガンダムセンチュリー」の背表紙にみのり書房って書いてあって、この会社じゃないか、と。それからやっとOUTって思い出して、じゃあせっかくだから、アニメ好きだし、受かんなくてもいいやって応募した。そしたら受かっちゃった。
それで「ミスター味っ子」[7]の表紙の号('89年5月号)からバイトを始めて、たぶん自分で原稿書いていいよって言われて初めてコメント書いたのがこの'89年7月号だったのかな。
面接で、好きなアニメは?「メモル」[8]、小説は?「早川の青背」[9]、ラジオは?「FM」、VTRは「β」、二輪何乗ってるの?「ゴドラ星人(ルビが「インパルス」[10])」なーんて答えたら採用になった(M)…'89年7月号「投稿時代」
まさに俺だね。インパルスのゴドラ星人ってふつう書かないよな。
この後のコメント、「彼は芦田さんのところ[11]にお使いに行ってもらったら感激して眠れそうにありませんって言ってた」って、これGさん[12]だよね。そうだったと思う。だって、(自分は)若いじゃん。その当時のアニメは詳しくなくても、ヤマトもバイファムも、自分が漫研に入って見てたアニメも、そういうアニメのクレジットで芦田さんの名前を見てるから。
面接のことは覚えてるんですか。
面接はね、もちろんGさんもそうだけど、Nさん[13]ね。あとは当然Y編集長[14]だと思うんだけど。後で聞いたらGさんは俺じゃなくてOくんを選んだんですよ。わかると思うけどOくんはどっちかというとアニメ畑じゃないんですよ。彼の趣味って文章とかそっち系で、もちろん後に朝日ソノラマ[15]にいくわけだけど。で、どうやらNさんが俺がいいって言ってくれたらしくて。アニメ好きそうじゃんって。
それで両方採ったと。そのころの編集部はT編集長からY編集長に替わったのがその2年くらい前('87年7月号)で、Nさん・GさんのほかにRIIさん[16]もLさん[17]もいらっしゃった頃ですね。
じゃあ、俺とかOくんが入った時って、別に編集部員が少なくて困ってたってわけではないんだね。
おそらく…。ハガキのお手当てをする人が欲しかったのかな。その後もアルバイトは何回も入れ替わってますが。
うん、確かに人数が少ないとは思ってたけど。俺たちの前の2年間ってバイトとかいたの?
編集後記とかに名前が出てくるのは、新選亭小猿さん[18]とか。それで少し空いて、投稿時代とかに僕ら読者にわかるような形で出てきたのはMさんとOさんですかね。
俺たち2人をとった理由はわからないね。ただ確かに俺たちのそのアルバイト期間でいちばん初めにやった仕事は当然、ハガキ整理なので。当時うちの編集部に遊びに来てた人もいっぱいいただろうからわかると思うけど、郵便局からカゴで来るんだよね。多い時は横90センチ、深さ45センチぐらいのをドンって持ってこられて、それをコーナー別に小分けするわけです。そこから始まって、はじめ1年間だっけ、バイトしてた。
そのあとみのり書房に就職したっていうのが載っています。
Oくんと俺に「どうする?」って聞かれて、「じゃ、俺は残ります」つって。Oくんは「就職します」って、蓋を開けたら「朝日ソノラマです」って言われて、「おまえ、みのり書房よりいい会社に就職しやがって!」ってちょっと思ったけど(笑)。就職したあと2・3回、たかりに行った、蕎麦とかうどんとか。そのあと怒られた。「なんで小林くんは俺のところに飯をたかりにくるんですか!」って(笑)。
その投稿のページの話なんですが、バイトで入ってハガキの仕分けをしながら、たぶんすぐに「投稿時代」っていう増刊[19]があったんですよね。これが'89年11月増刊号なんです。
そうね、はいはい。
この編集後記にGさん・Oさん・Mさんの3人のお名前が出ていて、だから実質3人で編集したのかなと。
そう、Gさんが「これやるから手伝いな」って言って、やった。
でもGさんの他の二人はバイトを始めて数ヶ月で。
そうだね、だから逆にできたのかも。本誌の方はやってなくて自分の担当ページもないから。(手に取りながら)この編集後記、ほぼGさんが書いてて…Oくんのコメントには日吉の月吉さん(投稿常連)のイラストをつけて、それが名前がわりになってるんだね。
で、これがMで俺か。ゆうあさん(投稿常連)のマリエル(『とんがり帽子のメモル』)のイラストを使わせてもらって。…いま見ると、若いね。「何言ってんだこいつ」と思うよ。でもたぶん読者の方々からすると、どんな人なのかまだわからないもんね。
この頃はわからないですね。わからないなりにいじろうとしていた時期だったんじゃないかな。
このへんはさ、投稿コーナーの編集コメントでもそうだけど、俺はアニメの話はほぼしてなくって、自分のことばっかり書いてる。
アニメは『とんがり帽子のメモル』が好きだっていうのはずっと書いてありました。
メモルは、大学に入って1年の時に放送だったんだよ。ある日たまたま見て、「ちょっとこれ好きかも」って。あの番組は途中で放送時間が変わってるんですよ。日曜の朝イチになった。そのとき俺はテレビを持ってなかったんだけど、別の同級生がテレビを持っていて、日曜の朝にそいつの部屋に行けば見れる。そいつが寝ていても、「おい、おはよう」って起こして(笑)。それでちゃんとハマったんだよ。
で、大学の漫研で、コピー誌を…オフセットなんて作れる状態じゃなくて、8ページのちっちゃいコピー誌を作ってた。月1だっけな、2か月に1回かな?その時に俺はただ好きなだけで、漫画なんて描けると思ってない。そしたら描けってことになって初めてミリペンで漫画を書くわけですよ。それがメモルのパロディだった。アニパロを描いてたの、1ページだけ。
それでちょうどいい流れでお聞きしたいんですけど、その編集部にバイトで入って数ヶ月くらいで、『絵ぇじゃないか』[20]っていう投稿漫画のコーナーで選者をされています。
そう、コーナー担当って、あれが最初の方だね。
その中で、最初はアニパロとかコミックエッセイみたいなものが載ってますが、そのうち『あーぱーグランゾート』[21]という、魔動王グランゾートのキャラクターで設定を全然変えてパロディにした企画とか、『それ行け相馬くん!』[22]という読者が投稿してきた漫画をそのままリレー漫画にしたような企画が出てきます。そういう読者に委ねながら連載していくみたいな形でやったのはOUT編集部の中でも小林さんだけだったと思うんです。
そうなの、昔やってないの?
ハガキネタを選者がつなげてリレーみたいにしているのはたくさんあるんですけど、こういうストーリーがそれなりにあるものを、読者をノせながらうまく流れを作って、というのは他にないんじゃないかと[23]。しかもこれ、何年も続いてるんですよ。
そんなに続いてたっけ?
相馬くんは5年以上続いてます。
そうなんだ。でもみんなよくそれの続きを描いてたね。
途中で終わらせようとしてる節もあったんですけど、なかなか終わらなかったりして。
そうね、俺がこうして欲しいって書いてるわけじゃないもんね。『あーぱーグランゾート』はそろそろ終わりにしようかというのがあったけど。
さっきおっしゃっていた、自分で同人誌的なことをやっていたっていう感覚がこのあたりに通じるかな、と。それがそれまでのOUT編集者と違うんじゃないかなって思ったんです。
OUTに入った理由の1つも、さっき言った漫研の流れなんだけど、一時期、漫研の編集長をやってたんですよ。自分で絵をそんな描けるわけじゃないけど、読んではいたから。で、漫画を描けるやつをまとめなきゃいけないって立場になるわけ。雑誌とか漫画は好きだったから、読んでればこの雑誌はこういう傾向だな、ぐらいわかるじゃない。だったら、うちの漫研としてはこういう風にまとめて順番はこれがいいよねっていうのをやってた。だから雑誌を作るとか本を作るとか…漫研のは本を作るとは言えないけど、ああいうのが面白いと思ってたんだよね。それもあって、偶然見つけた求人広告で編集部に入ってやらせてもらって、本当に面白いんだってのがわかったんじゃないかな。
で、OUTって、読者が勝手にやってくるから、ある意味で漫研っぽいんだよ。だからあなたたちの大徳さん[24]インタビューを読んで、本当に申し訳ないと思うんだけど、俺に雑誌をこうしたい、ああしたいっていうビジョンはないよね。「面白きゃいいじゃん」って感じが若干あるかな。
この頃はバイトだし、それで当たり前だと思うんですが、でも、その後もいろんなことを面白がってやっている。
うん、それは絶対そう。だって自分の中で楽しんでいたのは、インタビューに出ていた大徳さんがやりたかったようなこと…自分があの頃の雑誌に求めていたことは、やっぱりそういうところなんだよ。
俺がいちおう卒業生として、元OUT編集部の1人として思ってるのは…昔から自分は評論家とか研究者とかにはなれないと思ってたんですよ。で、OUTに入ってとてもよかったと思うのが、遊び方の…いろんなボールだよね。直球だけじゃなくて変化球もあって、その中にはカーブもあって、シュートもあって、フォークまであって、下手するとボークもあって、みたいな。そういうのを教えてもらった。
たぶん読者の皆さんにそれを載せることを許してくれた伝統があって、それが自分の中では今でも、「OUT魂」じゃないけど、自分なりのOUTというものだと思ってる。
その遊び方を、アニメファン・アニメを気にしてる人たちに、「もっとこうやって遊べるよ」って伝えられたらいいなってのは、この頃に培われた感じだと思いますね。逆に言えば、編集者の自分というのは、読者に育ててもらった感じですよ。
僕の入ったころのOUTって、上がNさんで、Gさんがいて、その上はLさん。編集長もYさんで。このころはもうRIIさんもほぼ来てなかった気がするんだよ。編集部には来てたとしても、たまにしか会わないんですよ。バイトして半年くらいして初めて会った。それから花小金井さん[25]に会ったかな。逆に、例えば須田留貧さん[26]とかあの辺のチームと、HEGE[27]、ああいう人たちの方は、毎月のようにお会いしてた。
俺、編集会議ってよく覚えてないんだ。Y編集長のころは、大徳さんが言ってたようなライターさんと一緒にやることはなかったんだよ。俺の頃は編集部員しかいなくて、ちょっとしたテーブルぐらいのところにみんな並んで、今度はこうしようと。それもほぼほぼ決まってる段階で、アイデアを出してぶつけ合うのはなかった。Nさんだったらサンライズ担当だから、今度この新番組があるんでこれやりますってぐらいで、報告に近かった気がするんだ。
そういう流れから入っちゃってるから、「こんな変なことやりたいです」とか無茶も言ってないし。逆に言えば、揉んで作っていくページがないんですよ。だからさっき言った「絵ぇじゃないか」の中のそういう変な企画も勝手にやってた。NさんとかGさんにちょこっとこんなことやりますって言ったかもしれないけど、編集長のYさんに「これやりたいです、いいですか」って聞いた覚えがない。
じゃあ野放しになってた?
そうそう。だからたぶんすぐ上のNさんとかGさんたちが、鎖をつけずに…ついていても長い紐をつけるくらいで、育ててくれたんじゃないかな。いちいち何をしなきゃいけない、こうしなきゃいけないって教わった気もしないし。
「それ行け相馬くん!」の第1回を作者のかじゅわあ相馬くんが描いた時に、とうぜん彼もこんな連載になるとは全然思ってない。そこに、Mさんの「こういうのを待っていたのだ」っていうコメントがあるんですよ。
やっぱりアニパロとかそういうものが、この時代になると…常連さんは常連さんで自分の癖があるし、逆に新人さんは新人さんで、真似をしてるとか、変化球をあまり投げてこなくなったんじゃないのかな。もちろんストレートで全然いいんだけど。あと俺が入った時代、アニパロってOUTだけのものじゃなくなっちゃってて、他のところもやってたし、アンソロジー[28]ってのが始まった頃でしょう。それもあって、なかなかそんなギャグがメインのアニパロなんかは減ってた気がするんだ。
このページの下にある『カットピープル』[29]か。こっちの方は、なんでもありだったんだよ。自分の選んでる担当コーナーっていうのはカットピープルがいちばん初めじゃないかな。読者が送ってきた、四角の枠に描いたイラストを切って貼って並べてさ、(指で示しながら)このぐらいの短冊を6本・7本作ってさ、入稿するわけですよ。よくやってたよね。
これはいわゆる初心者をちゃんと拾い上げよう、みたいな?
いやいや、もちろん「いつも同じ人が載ってます」みたいにするのは嫌だなと思ってたけど、別に初心者じゃなきゃっていうこともなくて、面白ければよかった。あと、サイズ感だよね。単純に絵としてのサイズをうまく並べないとさ、並びが悪くなるんですよ。そういうことも考えて、自分の趣味がそこにあるので。でもこれは確か俺だけじゃなくて、Oくんもやってるはずだよ。
あとはね、俺、文章も書いてるけど、そのころに4コマ漫画描いてるんだよね。中村治彦さん[30]があのころHEGEといっしょにやってて、そこにいつも4コマを載せてたのよ。それがあるとき間に合わないってことになって、Gさんが
「小林くん」
「何ですか?」
「絵、描けたよねえ。4コマ描いて」
それでその場で描いた。
読者もそうだけど、HEGEとか柳田直和くん[31]とかが同世代なんですよ。だから彼らと会えてよかったと思う。この人たちは前から仕事してるから、OUTについては自分よりも先輩だよね。彼らがどういう風に仕事してるかは、GさんとかNさんと話をしてるところで見えるから、それは勉強になった。プロの現場なんて知らないから、どういう立ち位置、編集者とライターとかイラストレーターはどういう関係性なのかってのがわかんないじゃん。それで学ばせてもらった。
あと、さっき言った須田留貧(三条陸)さんもそうですけど、あの辺の年齢的に先輩の人たち。彼らが企画を持ってきてページやって、担当はたしかLさんで、Lさんは自分じゃあんまりいろいろ言わないけど、こんな風にやるんだよっていうのを見せてもらったのは、とても勉強になった。
でもHEGEとか柳田くんから見たら、いきなり出てきたほぼ同級生のバイトが、自分たちにああしてこうしてっていうわけだから、それはよくなかったかもしれない。それはぜひ本人たちに聞いてみてよ。
そのHEGEの話ですけど、そのもう少し後の話ですかね。『常識探検隊』[32]があって、『世直し団』[33]があって、その世直し団のころにものすごくMさんがいじられてます。
はいはい。そこから完全に仲良くなったんでしょうね。彼らにとっては編集部員をいじるってのは…世間的には、編集部が偉くてライターが下みたいな印象がどうしてもあるじゃない。それを覆す方がもっと面白いわけで。正しい意味でのお笑いですよね。権力者をいじるっていう、そういう構図だったよね。だから、俺も初めは嫌だったんだよ。
やっぱりそうなんですか。
だってやなぎぃのイラストもさ、すげえ変な顔で描いてさぁ。面白いと思ったけど、当時は嫌だったんですよ。でもいじってくれたのは、いま思うと良かったなと思うね。やなぎぃがさ、イラストで俺の口をこう、伸ばしたじゃない[34]。
すごく伸びてましたね。
あれを立体で、粘土かなんかで作った人がいて、送ってくれたのよ。今でも持ってるよ。確かOUTにも写真を載せたよね[35]。あれは今でも嬉しいし面白いと思ってるよ。だから、自分が、じゃなくて読者が楽しんでくれた方がいいんだと思ったのがやっとその辺かな。その前は、まだ若いですから、自分がかっこよく見られたいとかさ、少しはよく見られたいと思うじゃん。
それがもうちょっとプロフェッショナルな意識になったと。
そう、別に自分の個なんてどうでも良くて、読者が楽しんでくれる、ネタとして面白ければそっちのがいいよねってなったんだ。
亡くなっちゃったけど、HEGEの吉沢くん[36]とは意外と仲良くさせてもらってて。HEGEとは2、3回、飲みに行ったかな。編集部全員じゃなくて、HEGEとっていうシチュエーションで。あと、HEGEの、古川さん[37]。
当時、『アナライズ・ナウ』[38]っていうアンケートの集計のページをされてました。
そうそう。今もう有名で、ラジオの構成作家やってるからね。TBSのね、ライムスターの宇多丸さん[39]とやってる、あの番組、すごい有名だもん。アニメの業界人もみんな聴いてるし。宇多丸さんの方も、本当に知識人で、音楽は当然ですけどアニメとか映画とかもすごく詳しいんですよ。そういう意味で、古川さんも、ある意味でアウトの流れの端っこに、ちゃんといてくれてるなって気がするよね。ありがたいですよね。
柳田さんといえば、『投稿時代2』[40]の、読者とデートする企画でMさんと柳田さんのお二人がそれぞれ読者の女性とデートしています。
「初心者のためのデート入門」と題したカラー記事。編集部Mは読者女性と公園などでさわやかなデート、柳田は別の女性とデートするが古本屋で同人誌を買うなどして愛想を尽かされ、最後にホテル街で殴られて倒れたところをさらにMに踏まれる、というストーリー。
(やなぎぃが読者の女性に踏まれている写真を指しながら)そうそう、やなぎぃ、ひどいよね、これ。これ本当にGさんが勝手にこのシチュエーション作って、「行ってこい」だったからね。俺も俺で、こっちの彼女をエスコートしなきゃいけない。「いい服着てきてね」って、こっちはオタクだぞ、いい服なんて持ってねえよっていう(笑)。
これはGさんが台本を書いたんですか?
いやあ、俺、この台本は書けないよ。でもこの企画は面白かったね。俺はこっちのやなぎぃの役をやりたかったな。だってこっちの方がやりやすいでしょ。ニ枚目ってわかんないじゃん。自分の中で経験がないから(笑)。
そのあとに柳田さんのこの企画のレポート漫画が載ってて、「許せんM!」なんて書かれてます。
そういうのもいじられ側になってたんだね。ほぼ同世代でこういう漫画とかイラストを描いてくれた人がいたのも、当時の自分としてはありがたかったよな。柳田くんもそうだし、木野っち(木野聖子)[41]とか、藤内恵理さん[42]とか。
Y編集長からN編集長になって編集部が二人体制になったのが'91年の後半くらいです。たぶんYさんの時代に、読者ターゲットを中学生くらいの女の子にしようといろいろ誌面を変えて、最終的にそのターゲットは変わらないままNさんになって、その流れにさらに乗っけていろんなことを始めた、という印象を僕は受けているんです。それで、これは僕の感覚なんですが、その前後くらいからアニメの記事が生き生きし始めたような気がするんですよ。
たぶんNさんと2人体制になった時に、単純にページ数が大変じゃん。もちろん実際に書くライターさんは別にいたし、全部2人でやってるわけじゃないけど、チョイスは2人でやるしかない。それから2人しかいないから編集会議なんてしなくなっちゃった。「何やりますね」はもちろんすり合わせはしてるけど、具体的にこれをこうしましょうみたいなのはないから、俺が報告するわけです。「これをやりたい」って言って、Nさんが「もうちょっとこうして」というのはあるけど、それで通っちゃうから。
そういう意味では勝手にやってる感じになったんだろうな。別に前が堅苦しいとか、Yさんがもっとこうしろって言ってたわけじゃないから。もちろん予算は握ってやってるわけだからそこはあるかもしれないけど、「絶対やるな」なんて言われたことはほぼない。
2人でやってらっしゃった頃は、その前の4、5人の頃に比べて、当然ものすごく仕事量が増えて、外部に頼まないとできなくなったんじゃないかなと思うんですが。
うん。だから、バイトだよね。編集後記に書いてあるからわかると思うけど、アルバイトは定期的にいたわけ。でも、あの時代ね、本当にこれはバイトしてた人に申し訳ないけど、自分が勝手にやってるから、バイトの人にも勝手にやってほしいんですよ、俺は。そこはちょっと自分の中で不満があった。でも本来は言われたことをやるのがアルバイトだからね。だから俺は、上に立てなかったんだよね。先輩とか、クラブ活動でいうと部長とかにはなれなかった人だから。それもあったかもしれない。
だから、Nさんがいちばん大変なんだ。下に俺みたいなやつがいて、勝手にやってるし。でもOUT自体はギリギリなんとかなってたんだけどね。だけどみなさんも知ってる通り、OUTはなくなっちゃうわけで。ちょうど阪神淡路大震災[43]があったり、地下鉄サリン事件[44]があった年(1995年)だな。だからドタバタの中でなくなっていくって感じもしたと思うんだよな。でも、その悲しい話の前に、この時代が、皆さんにとっていいと思ってもらえてたんだから、それはうれしいですよ。
「これがライブだよおっかさん 朝まで生ライブ」:'91年8月号。芦田豊雄とスタッフの座談会形式によるスタジオ・ライブの紹介。芦田のおぢさんはトレードマークの菅笠を被った写真で載っている。
いま'91年8月号を見てるんだけど、投げやりな企画が多いね(笑)。『朝まで生ライブ』って。
これもめちゃくちゃ面白かったです。
これはね、ネタがなくてどうしようかって時に、スタジオ・ライブさんにこんなのどうって言って、いいよって。これ、今の社長ですよ、神志那さん。写真の上にイケイケナイスガイって書いてるけど、ひどいよねこの辺ね(笑)。でも今でも本当にライブの方々とは親しくさせてもらってますよ。この前もヤマト展で、神志那さん[45]・吉松さん[46]・渡辺浩さん[47]とか、皆さんご存じのライブの人たちにお会いできて嬉しかったよ。
スタジオライブもインタビューしたいなと思ってるんですよ。創業者の、師匠のことを教えてくださいって。
いいね、神志那さんに聞けば。いま社長だから。
OUT休刊の後で俺もいろいろな仕事をしてて、一時期、知り合いと何人かでちっちゃいインターネットラジオをやってたんです。そこでいろんな自分の知り合いとかアニメスタッフの方にお話を聞いてて、芦田さん[48]のところにも行こうってオーケーもらったんですよ。で、俺は、OUTのこととか、'80年代から'90年代、あるいは'70年代ぐらいのヤマトの話とか聞こうと思ったの。なかなかOUTの中で真面目な話してくれないじゃん、芦田さんって。だから俺は真面目な話を聞きたくて、ちゃんと「こういう風に聞きたいんです」って言って、芦田さんも「ああいいよ」と。
それで行って、お願いしますって始めたら、
「真面目な話はしないよ」
「ええっ、芦田さん、約束が違うよ!」
結局、バカ話をして終わった(笑)。今はね、ほんとに何度も行って、いろんな話を聞けばよかったなと思うんだけど、でも嬉しかったな。ちゃんと会ってくれて。
そういう、終わった後もOUTっていう看板を背負わせてもらって、お話をしたり仕事をさせてもらったから、本当にありがたいなって思ってる。やっぱりその看板がなかったら、OUTが終わった後で仕事なんかもらえなかったからなあ。本当に今でもOUTのこと言われるよ。30年経っても言われるもんね、「OUTの読者でした」って。ありがたいよね。ていうか皆さん元気だ。元気でアニメファンやってる。
[1] O : 月刊OUT編集部アルバイト。投稿コーナー「笑々寺」などを担当。後に朝日ソノラマに就職する。
[2] ズゴックのガンプラ : 「ガンプラ」には長い歴史があるが、いちばん最初のガンダム放送時に発売されたものはあまり出来がよくなかった。そのなかでズゴックのプラモデルは劇中の印象をよく再現しており、いまもマニアックな人気を集める一品。
[3] アニメージュ : 徳間書店から発刊されたアニメ専門誌。'78年7月号(創刊号)の表紙は『宇宙戦艦ヤマト』。
[4] OUT創刊号・ヤマトの号 : 「目からビーム」の表紙で有名な月刊OUT創刊号は'77年5月号。翌6月号は伝説の『宇宙戦艦ヤマト』特集号。
[5] ガンダムセンチュリー : みのり書房発行のムック。ガンダムの背景世界について徹底的な考証を行い、のちに事実上の公式設定となった内容も多い。
[6] アニメック : ラポートから発行されたアニメーション雑誌。’78年12月に『MANIFIC』として創刊、のちに『Animec』と改題。
[7] ミスター味っ子 : 寺沢大介による週刊少年マガジン連載の漫画。'86年-’90年。アニメ版はサンライズ制作、'87年-'89年。
[8] とんがり帽子のメモル : 東映動画制作のファンタジーアニメ。'84年-'85年。女子小学生を対象としていたが、それ以外のアニメファンの評価も高かった。
[9] 早川の青背 : ハヤカワSF文庫のこと。背表紙が青い。
[10] GSX400 IMPULSE : スズキが製造・販売していたオートバイ。
[11] 芦田さんのところ : 芦田豊雄が設立したアニメ制作会社「スタジオ・ライブ」のこと。
[12] Gさん : 月刊OUT編集部員。映画コーナーや投稿コーナー「投稿時代」などを担当。強烈な個性に影響を受けた読者も多い。掲載謝礼の封筒の書き文字がでかかった。
[13] Nさん : 月刊OUT編集部員。アニメ記事や投稿コーナー『見たかキミは…!?』『好きなものはエトセトラ』などを担当。のちに六代目編集長。愛称は「Nどん」。
[14] Y編集長 : 月刊OUT五代目編集長。
[15] 朝日ソノラマ : 朝日新聞社の子会社の出版社。ジュブナイルSFや後のライトノベルに通じる青少年向けの小説などの出版が多かった。2007年に廃業。
[16] RIIさん : 月刊OUT編集部員。アニメ記事や投稿コーナー『投稿時代』『ファンサイクロペディア』などを担当した。
[17] Lさん : 月刊OUT編集部員。OUTきっての才女と呼ばれた。編集部見学に行き、Lさんにお茶を出してもらった読者は多い。
[18] 新選亭小猿 : 元常連投稿者、後にOUT編集部アルバイト。
[19] 増刊投稿時代 : 89年11月増刊号。本誌『投稿時代』の拡大版だが、表紙の「ちょっとエッチ だけどマジメ」の文句の通り、恋愛・性を対象とした記事と投稿コーナーで構成されている。
[20] 絵ぇじゃないか : 漫画やモノクロイラストの投稿コーナー。
[21] あーぱーグランゾート : 発案の元は'90年6月号に掲載されたグランゾートのパロディ漫画。その後読者にゲストキャラを公募、読者の合作によって連載された。ファンクラブが結成され、会員は300人を越える('92年1月号)。『魔動王グランゾート』は'89年から'90年に放映されたサンライズ制作のロボットアニメ。キャラクターデザインはスタジオ・ライブ。
[22] それ行け相馬くん! : 89年12月号に掲載された、作者(かじゅわあ相馬)自身を主人公にした漫画。編集部Mが続きを募集したことから隔月の投稿リレー漫画となった。'95年1月号で最終回と書いてあるが、翌2月号で第28回が掲載されている。
[23] 他にない : インタビュー後に気づきましたが、「OUTジャーナル」(構成・堀井雄二)で「連載大河リレー小説 わが愛しの暗黒星雲へ」が'80年11月号から'81年8月号まで掲載されていました…。
[24] 大徳哲雄 : 月刊OUT四代目編集長。詳しくは当サイトのインタビューをご覧ください。
[25] 花小金井和典 : ライター。'80年代中頃にアニメ記事や数々のアニパロ小説を手がけ、投稿コーナー『花小金井かんとりいくらぶ』('85-'88年)は人気を集めた。
[26] 須田留貧(すたるひん) : ライター。『OUTシャイダー』などのパロディ企画が有名。'87年よりおもちゃ関連の記事を執筆。のちに三条陸として『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』原作、戦隊シリーズ・仮面ライダーシリーズ脚本などを手がける。
[27] スタジオHEGE : ライター集団。創設は中村治彦。'89年当時は『常識探偵団』というコーナーを構成していた。創設の経緯については当サイト、なかむら治彦さんのインタビューに詳しい。
[28] アンソロジー : 特定のテーマに基づいて複数の作家の作品をまとめたものを指すが、ここでは'80年代後半に興隆した、一般書店で流通したアニメ・マンガの二次創作作品集のこと。
[29] カットピープル : 投稿ページの下の余白で展開されたカットのコーナー。左から右へ走るキャラクターの投稿が各ページに数点、横並びに配置されている。
[30] 中村治彦 : 漫画家、スタジオHEGEの創設者。元投稿常連。'89年当時は「常識探検隊」のコーナーで4コマ漫画を掲載していた。編集部Mの4コマ漫画が掲載されたのは’89年9月号。
[31] 柳田直和 : 漫画家、イラストレーター。元投稿常連。愛称は「やなぎぃ」。月刊OUTでは投稿ページのカット、特にスタジオHEGEのコーナーで活躍。『やなぎぃの噂の真相』という投稿コーナーもあった。
[32] 常識探検隊 : 89年1月号から’91年8月号まで。スタジオHEGEによる、身近な話題をテーマにした記事と投稿のコーナー。
[33] 納得いかねー世直し団 : 91年11月号から'95年5月号。小学生男子の言動をそのまま大人にしたような記事とシュールで尖った笑いの投稿コーナーで、スタジオ・ライブの投稿コーナーとともに、後期OUTの笑いの部分を盛り上げた。
[34] 口を伸ばしたイラスト : 「M小林はよくしゃべる」というネタから、柳田直和が描くMのイラストの口がとがってどんどん伸びていき、ついには舌が地球規模に伸びるという絵になってしまった。
[35] フルスクラッチM・小林 : 93年1月号 『お茶の水研究所』。作者はしーぎゃんぐ。
[36] 吉沢晃一 :
[37] 古川耕 :
[38] アナライズ・ナウ : 月ごとの質問に対する読者アンケートの集計結果を元に、アウト読者について分析するコーナー。'92年8月号より。読者からの珍答がおかしかった。
[39] 宇多丸 :
[40] 投稿時代2 : 90年10月増刊号。前の増刊に引き続き恋愛・性をテーマにしている。
[41] 木野聖子 : 漫画家、イラストレーター。元投稿常連。投稿コーナー『投稿時代』『お茶の水研究所』などのカットのほか、超人ロックの投稿コーナー『じじいの小部屋』などを担当した。
[42] 藤内恵里 : 漫画家、イラストレーター。元投稿常連。'88年-'89年にはアニパロ漫画が毎号掲載されていた。他に『投稿時代』などのカットを手がける。
[43] 阪神淡路大震災 : 95年1月17日に発生した地震災害。神戸市を中心に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明者は6000人以上。
[44] 地下鉄サリン事件 : 95年3月20日に発生した、オウム真理教による無差別化学テロ事件。営団地下鉄(現東京メトロ)の列車内で信者らが神経ガスのサリンを散布し、多数の死傷者が出た。
[45] 神志那弘志 : スタジオ・ライブ出身のアニメーター、アニメ監督。2011年、初代社長の芦田豊雄の後を継いで、スタジオ・ライブ代表取締役社長に就任。
[46] 吉松孝博 : スタジオ・ライブ出身のアニメーター。代表作は『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』キャラクターデザイン。…ですが、アウシタン的には「サムシング吉松」名義の『忍者トットリ君』ですね?
[47] わたなべひろし : スタジオ・ライブ出身のアニメーター、アニメ監督。『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の作画監督で一躍人気に。『バイファム』『ガラット』などでも版権イラストを多く手がけ、アニメイトで下敷きやポスターを買うのが嬉しかった。
[48] 芦田豊雄 : アニメーター、アニメ監督。代表作に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』『銀河漂流バイファム』『魔神英雄伝ワタル』など。OUTでは投稿コーナー『芦田豊雄の人生冗談』において、強烈な下ネタとギャグセンスで熱狂的なファンを獲得した。