short stories

短編作品


 現在までに、ウォマックは六篇の短篇を発表している。どちらかと言えば長編型の作家のようで、キャリアの長さにしては少ない作品数である。ドライコ・シリーズのような大胆な言語実験はなく、また恐らくほとんどが非SF作品だが、奇人や奇形や奇妙な理論などといったウォマックらしい意匠をあちこちに見ることができる。オムニ誌に掲載の「A Kiss, a Wink, a Grassy Knoll」(その後何かのアンソロジーに入っているかどうか不明)と、一種のファンジンに掲載されたとても短い一編「Twelvefourteen」のほかは、一応まだ入手はそれほど難しくないようだ。
 ここでは、そのうちで現在当サイト管理人が入手ずみの三編を紹介する。




"Out Of Sight, Out Of Mind" [1991]

 「去る者は日々に……」
 主人公ラングは、一度も会ったことのない、父親よりも歳の離れた従兄の死を、その担当弁護士から報される。彼の残した古いアパートにはどういうわけか発掘の必要があった。過去を保存することへの尋常ではない強迫観念に駆られて従兄が収集したありとあらゆる品々が、広い建物を埋め尽くしていたのだ。警察の介入に訝しみながらも、好奇心のままに、ラングは二人の担当弁護士と巡査部長とともに防護服とマスクに身を固め、悪臭と塵のうずまく建物の中へ入ってゆくが……。

 ホラーのアンソロジー「Walls Of Fear」に収録された作品だが、厳密な意味でのホラーではない。
 めずらしく、この作品は三人称で語られる。主人公はアパートの光景を映し出す単なるカメラの役目を担い、作者の力点は、キャラクター上ほとんど区別のつかない二人の弁護士による回想を通じて、主人公の歳の離れた従兄である奇矯な老人の抱えていた強迫観念と苦悩を描き出すことに置かれている。そこから浮かび上がる老人の姿には、この手の奇人たちへの作者自身のシンパシーが感じられる。異様な光景が続くなかで、おっとりした弁護士二人と威勢のいいプエルトリカン女性の巡査部長との語りのコントラストが楽しませてくれる。


「あの方の中にあったいくばくかの社交性の名残りが、自分のやっていることについての説明を促したようで」
 一同が湿った階段を上るなか、シャーマンが続けた。
「始めのうち私どもは彼がただこちらの気をそらそうとしているのだと思いましたが、それが何とは言いにくいのですが、それだけの事ではないらしいというのが分かってきました。あの方が言われるには、アボリジニや、インディアンや、あらゆる土地の未開人プリミティブたちはみな、かつては、社会の圧迫が大きくなるなかで我々が失ってしまった感覚と能力を持っていたのだと。遠くからの音も聞こえるとかですな、たとえば」
「昼間でも星が見えたと言ってましたな」ウェンゼルも例を挙げた。
「太陽の匂いを嗅ぐことができたとか。言い回しのセンスのある方でしたな。現代モダンがポストモダンに変わっていくなかで――まあそういう言い方をしたわけではないですが、私はなんでも覚えていられるという人間ではないので――我々の親たちが当然のものとして持っていたのに、我々は同じく当然のように失ってしまった認識があるのだと。ひとつの世代のなかで、社会の組織から歴史が、または少なくとも歴史の知識が、削除されてしまっているように思えると」
「過去を失うことは、魂を失うことでもある」ウェンゼルが言った。
 作業員が取りつけたフラッドランプがホールの天井から太い電気コードでぶら下がり、影をナイフのように鋭く見せていた。積み上げられた「ナショナル・ジオグラフィック」と「ライフ」の間を抜け、こま結びできつく縛った三十の束にまとめられた新聞紙をめぐって、いくつかの通路があった。床の近くの縄はほとんどが囓られていた。ラングが足取りを乱してこの紙の壁にぶつかると、突然の光輪とともにゆらめくパルプの焔が噴き出した。頂点から底にかけて、色はクリームからレモンへ、カナリヤからマスタードへ、それからアンバー、ブラウン、そして黒へと深みを増してゆく。
「トンネルだの小道だのがそこらじゅうにあるよ」と巡査部長。
「引き返す道とか、偽の通り道とか、行き止まりとか。なんであいつは自分で迷子にならなかったのかね」
「どこに何があるか、すべて覚えていたんですよ」とウェンゼル。「自分の迷宮を知り尽くしていた」

"Out of Sight, Out of Mind" 1991




"That Old School Tie" [1995]

 「あの懐かしいスクール・タイ」
 検死報告の編集に携わる主人公。大学で文学の教鞭をとる二十数年来の友人、チャールズから紹介されたのは、奇妙な文学理論をふりかざす美しくもエキセントリックな学生、ヴァレリーだった。彼女と妻子あるチャールズとが他人には理解しがたい深みにはまってゆく様子が、主人公の目を通して語られる。

 エレン・ダトロウ編纂によるエロティック・ホラーのアンソロジー「Little Deaths」に収録された、アンソロジーのテーマの通りに死とエロスが結びついた暗い物語。SFの要素はとくにないが、作家の奇書コレクションを反映したような「カオス文献学」なる文学理論が面白い味を添えている。また、作者によれば、「ヒーザーン」の中で若者の死因第一位として話題にのぼる「自己性愛窒息」を題材にしたものでもある。
 薄暗さとコミカルさのバランスが絶妙で、いずれも痛々しくまた滑稽な登場人物たちの姿が、上品なユーモアとともに容赦なく描かれている。


「なにか例を見せてくれないかな」
 私がヴァレリーに頼むと、
「いいわよ。ロマン派を的にしましょうか。彼のお気に入り」
 チャールズがにっこりとする。
「シェリーの『アドネース』からの典型的な一節、『静かに、静かに、ヒーは死なぬ、ヒーは眠りにつきはせぬ』 ("Peace, peace, he is not dead, he doth not sleep.")というところね」
 バックパックからペンとノートを出すと、ヴァレリーは食べながら書き始め、紙の上のそこらじゅうにパスタの切れ端をぼたぼたとこぼした。
「始めは小さく、結果はでかく」
 そう言いながら私に手渡す。ページに書かれているのは、「眠り平安に非ず死せず平安はヒーヒー"Sleep doth not peace dead not peace is he he.")」。曲線、直線、矢印で、それぞれの単語がたがいの仲間に繋ぎあわされていた。ひとりで、つがいで、三人所帯メナージュ・ア・トロワで。
「実に微妙なパターンだね」
 倒錯的なまでに入り組んだ網模様をながめて、私は言った。
「じきにそいつが飛びかかってくるぞ」とチャールズ。
「その気になればいくらでも批評上の臨界点を先延ばしにすることができるけど」とヴァレリーは続け、
「その気がなければ、とっとと済ます。ナンセンスから意味センスを剥ぎ取る。作者が隠そうとしているファンタジーがわかるでしょ。どう使えるかわかった?シェリィがこのセンテンスで行っているのが彼自身の来るべき死の予感を笑い飛ばすことであるのは明らかでしょ」

"That old school tie" 1995

 パーシイ・ビッシュ・シェリーはロマン派の詩人で、「フランケンシュタイン」を書いたメアリー・シェリーの夫としても知られる。「アドネース」は友人の詩人、ジョン・キーツの死を悼んで書かれたもの。




"Audience" [1997]

 「耳をかたむける者」
 初出はエレン・カシュナー編「The Horns of Elfland」。
 旅先で偶然見つけた小さな博物館。そこに展示されていたのは失われた音の数々だった。老いた管理人の案内でそれらの音に触れてゆくうちに、老人とその祖国を襲った悲劇が次第に明らかになる。

 現実の世界と曖昧な境界で交わるファンタジー。繊細な文章で表現される数々の音とともに、祖国を喪った老人の深い哀しみが美しく描かれている。
 主人公の旅した場所はおそらくオーストリアのウィーンで、老人の祖国はヨーロッパ東方のどこかを想像させる架空の国だが、登場する地名などは意図的にいろんな国の実在の名前の寄せ集めになっていて、中途半端な造語で安っぽさが出てしまうのを避けながら無国籍感を出すという狙いがあると思われる。


 滅びたものたちの声に耳を添わせると、わたしの心にはめくるめく瞬間が訪れた。他人の想い出への哀しみ、恐れ、そして懐かしさの思いもよらぬ混合がわたしの魂になだれ込み、ある物件が「喪われし音の殿堂」にふさわしいと見なされる基準とはどんなものなのかと考える一方で、モーリシャスに到達した最初の夜をドードーのがなり声で眠れずに過ごした十七世紀の探検家たちの姿を心に描き、高架鉄道が轟音とともに六番街へやってくるたび本能的に手近のガラス製品を押さえた一九三〇年代のマンハッタンの夜に思いをはせ、思春期前の自分の声にどんな抑揚がそなわっていたかを思い出そうとした。いつもたしかに耳にしていると思いこまれ、形作られるときには決して耳を傾けられることのない音の数々。最初に耳にしたときに最も耐えがたい雑音と思えたものが、のちには最もかけがえのない、最も取り戻しがたい音になるというのが常なのだろうか。

"Audience" 1997