ELVISSEY   [1993]




 上昇アセンションを、わたしは熱望した。夫は下降ディセントを夢にみた。出会いに際して、それがふたりの封となった。
「禅」
 とコンラッドは繰り返す。
「禅だよ、亜鉛ズィンクじゃなくて。ゼン、ゼン、ゼン」
「哲学を考えて、金属じゃなく。正しくフレーズするには」
 ウェーバーが言う。
 現在とは、未来がそれを過去に変えてはじめて耐えられうるものなのだとわかっているから、わたしと夫はたびたび、かつてはこうだったと思える二人の結婚生活、あるいは、かつてはこんな人間だったと思える二人の姿を、心に描いたものだった。けれども、もはやわたしはホログラムの魂からは安らぎを得ることができない。その輝きを胸に抱きしめようとしても、水に映った鏡像のように触るさきからぼやけてしまうのだから。
「クルーズィン、、、…」
 教師の導きにしたがい、私は繰り返す。
「ゼン」ウェーバーが正す。

"Elvissey" 1993


エルヴィッシー

 「テラプレーン」から15年後。世界の大部分は依然としてドライコの支配下にあり、その経営方針の大きな転向にもかかわらず、人々の置かれている状況にさほどの変化は見られない。
 ドライコは、急速に勢力を伸ばしてきた世界中のエルヴィス信者たちを懐柔するため、「本物の」エルヴィス・プレスリーを、いまだ開いたまま放置されている「フラッシング・ウィンドウ」を通じてもう一つの世界から拉致し、企業の広告塔として使う計画を進めていた。もう一つの世界は1950年代の半ばにさしかかったばかりであり、ティーンエイジャーのエルヴィスがまさに存在しているはずなのだ。

 語り手となるドライコの社員イザベル・バニーは、保安部の要職にある夫とともに、「E」捕獲の任務に志願する。ドライコの方針変更によって「再善化」を強制され、夫のジョンは日常的な薬物の投与を受けて無気力状態に陥り、それによって夫婦の関係にも大きな亀裂が生まれていたのだ。この任務がかつての関係をとりもどす契機になることを二人は願っていた。
 冒頭の場面で、イザベルと夫は過去の英語をマスターすべく集中講義を受ける。発音練習に用いられるテキストは、白人のブルーズシンガー、マイク・ブルームフィールドの曲名"cruisin' for a bruisin'"、そして「ロックンロール」の語源となった古いブルーズのタイトル、"My baby rocks me with a steady roll"。




 夫の「刃生ナイフライフ」、黒の表紙がこぼれたバッテリー液で色褪せた一冊が彼のまえに広げられていた。わたしはその一節、ジェイク自身の言葉で語られた箇所を読む。
 ひとりがひとりを殺すとき、死ぬのは二人。忘れるな。血は流れずとも、避けがたく何かがこぼれる。年を経て滴は人の周りに集まり、事の度ごとに溜まりプールは深まる。ひとたび底を失えば、表面は到達不能。沈溺の時を受容せよ。
「ジョン」とわたしは呼びかけ、肩を叩いた。これで幾度目か、消えることのない可能性がわたしの心に押し入る。わたしのいない間に夫はついに自分の溜まりの底に沈んでしまったのではないか、と。

"Elvissey" 1993


エルヴィス信仰

 元はといえばサッチャー・ドライデンただ一人の妄想でしかなかったエルヴィス信仰は、キリスト教なきあとの西洋世界の新たな拠り所となり、数十年の間に一大宗教に成長した。信者の数はふくれ上がり、無数の宗派が各地で信者を集めている。それはもはやドライコのコントロールの及ばぬところにあり、体制を揺るがす最大の脅威となりつつあった。



再善化

 この時期、ドライコは新しい企業ポリシーを打ち出している。傷ついた世界の浄化をめざす「再善化(regooding)」。組織の再編成が行われ、かつてジェイクがその才能をそそいだ保安部は武装を解かれ、メンバー達は薬物の投与と暗示によって攻撃性を抑圧されている。輝くガラスの新都市が建設され、「再善化」をはたした者だけがそこに住むことを許される。都市はいまだ閑散としている。



胎児芸術

 軌道上の古い核兵器が地球に落下しつづけ、放射能による汚染は人が体内で子供を育てることを事実上不可能にした。法律により自然の方法による妊娠・出産は禁じられ、「体外出産」が義務となった。いずれにしても人の胎内で育ったものは奇形として生まれる運命で、多くは生き延びることもできない。
 「胎児芸術(フィータル・アート)」は、そうして生まれてきた死産の奇形児を、母親が愛情をもって作品に仕立て上げる、新しい芸術運動だ。グロテスクで美しいその作品には、世界がもたらした暴力への怒りと我が子への愛とが同居している。




「言葉ない」ターニャのボディーワークを見つめて、人がつぶやく。「倍衝撃だ」
 なかばモビール、なかばコラージュのその芸術作品は、先端で接して浮かぶ透明なふたつの円錐体に納められていた。上のほうは、中に浮かんでいる二つの絡み合った棘つきの車輪の、ジャイロスコープ状の動きに従って止むことのない回転を続け、車輪にはそれぞれ10本の骨張ったスポーク腕があり、指は見る者に向けて差し伸べられて、自然が企てもしなければ望みもしない拮抗を体現している。下のほうの円錐には4つの小さいものたちがいて、顔を抜きにすれば五体満足で、薔薇のように輪をなしてまわり、この世ならぬ踊りを永遠に踊り続ける。
「何年も、作るのに」ターニャが誰かの質問に答えた。「くじけた、時々」

"Elvissey" 1993


メラウェイ

 15年の歳月を経て、かつてルーサーが目撃した極端な人種差別がさらに悪化していることが予想されるもう一つの世界。
 黒人であるイザベルには、潜入にあたって自らの肌の色を偽装する必要があった。メラウェイと呼ばれる新薬の投与を受け、白人と見まごう肌の白さを得るが、外見の変貌がもたらしたアイデンティティ喪失の苦痛は予想以上に大きいものだった。




「妻に食事が要る。会うかね」
「もうひとつの世界から来た人なんですか」
 否定してくれることを願いながら訊いた。
 彼はうなずき、自分を叩き伏せるかもしれない誰かに捧げるかのごとく、ふるえる両手でトレイを体の前に持ち上げる。わたしは彼の中に、わたしたち夫婦の避けがたい連接シジジーの行きつく先を見て取った。年を経るにつれていかにその手触りが、恋人のそれから蛇のそれへと変わってゆくものか。その抱擁は強まるにつれて押しつぶし、すべての生気を奪いさる。それがどこかへ這い去る前に腹を満たしておく必要があるために。
「妻自身の世界だ」家主は正した。
「戻ることがあったら、忘れぬように」と付け加える。
「通り抜けた者は、みな変わる」

"Elvissey" 1993


 「ヒーザーン」でいったん過去へともどったあと、物語はふたたび未来へと進む。
 主人公たちは「Ambient」「テラプレーン」と同様のポスト文学的な言葉で会話するが、「テラプレーン」に較べて会話の量が多く、夫婦の間のプライベートなやりとりもすべてこの未来語で話されるので、よりポスト文学化が進んでいるような印象がある。
 「こちら」の世界とは異なる第二次大戦の結末(日本に14発の原爆が投下されるなど)を経て、異なるパワー・バランスの下にある「もう一つの世界」の姿が描かれ、宗教、救世主、そして暴力というお馴染みのテーマが掘り下げられてゆく。グノーシズムがまた違った場所に、違った形で現れ、それが主人公たちの目的をさらに困難なものにもする。
 六部作中でもっとも長い作品。1993年のフィリップ・K・ディック記念賞を受賞した。