HEATHERN   [1990]




 ある朝、歩いて出勤するとき、わたしは危うく赤ん坊に殺されそうになった。その運命の瞬間、わたしはバス停留所の屋根の下を通っていたおかげで生き延び、その話をすることができる。見知らぬ人々に取り巻かれながら、わたしは残骸に眼をやった。天からの笑い声で、わたしたちは眼を空に向けた。赤ん坊の母親が、両腕をおろして、窓から身を乗り出した。喝采することもなく、観衆は散り散りになり、この神の街のドブに食物屑を捜す。バス停留所の残ったガラス板はゼロックスのこけら板で覆われ、いちばん大きいのには、こうあった――

十字架刑希望。釘自前。
留守電にメッセージを。

「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990


ヒーザーン

 シリーズ第三作。時系列上は二番目にあたる。物語は過去へ遡り、ドライコが国家権力を手中におさめたばかりの時代が舞台となる。
 1989年、アメリカはすでに大きな混乱と変化の時期を経て、ニューヨークの街は少なからぬ変貌をとげていた。温暖化の影響はすでに顕著で、11月だというのにまるで真夏のような猛暑が街を襲っている。

 主人公ジョアナとその同僚たちは、経済が崩壊しドライコがあらゆる企業を手中に収めるなか、かろうじて破滅を逃れ、流木にすがるようにドライコに職を得た、かつてのエリート達である。要職につき、高給を受け取っているが、その仕事の内容は結局は罪のない他人を食い物にして成長するドライコに手を貸すことであり、それぞれが自身の良心との折り合いをつけることを余儀なくされている。




「ま、誰かが現れて、それが救世主のようだったとしよう」とサッチャー、「少なくとも、ある程度の人間に対して、ある程度そう思えた、と」
「どういう種類の救世主なんですか」
「何種類あるのかね」とたずね返してきて、「手相見とか、ジプシーの茶葉占いとかじゃない。エジプトやアトランティスや火星のことを言いたてるカリフォルニア・ベイブでもない。わしが言っているのは、本物のことだ。舞台に出る前に、それを袖で捕まえることができたら、どうだろう……」
 その両眼が光をたたえ、狼煙のろしのように輝いて闇を裂き、
「どう取り込むかね……。企業の枠組みに、その男をインターフェースできるかね。その男はマーケットで、どれだけの力を持てるだろう」

「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990


潮吹き上げる時代

 後に「ゴブリンの年」と呼ばれることになる災厄の年から二年が過ぎ、アメリカは残骸のような姿をさらしていた。
 事実上政府を動かす力を得たドライコは、街を戒厳令下のような状態に置き、頻発する暴動を軍隊で鎮圧し、ロング・アイランドには連日激しい空爆を行っている。資産の凍結は解かれ、ドライデン夫人の考案になる世界規模の物々交換システムが軌道に乗り、止まっていた経済の歯車がふたたび回り始めた。「潮吹き上げる時代」は終わり、新しい支配者のもと、より異様な時代が幕を開けようとしていた。



救世主

 奇跡をおこなう男の噂をドライコは聞きつけた。
 自身はエルヴィス・プレスリーの救世主としての再臨を信じて待ち望むサッチャー・ドライデンは、その男レスター・マキャフリイを、企業の新しい道具として利用する計画を立てる。持ち前の誇大妄想によって、サッチャーはレスターの超能力を確信し、自身の野望のなかで大きな役割を担わせようと企みはじめる。




「神々は、救世主について、どう感じているのかしら」とわたし、「聞いたことある……」
「救世主が来たとき、自分たちがふたたび結びつくことは知っているけど、そのあと何が起こるかは、神々も知らない。すべてが変わることはわかっていても、どういう形かは知らないから、神々も急ぐことはなかったわけで――」
「それで、いつまでも先延ばしにしつづけるわけね」
「そろそろ潮時なんだ」とレスター、「今にいたって、神々の疑念はすべて確認された。きっと神々も躊躇せざるを得ない。救世主というのは、神々にとって最後の審判のための装置みたいなものだから」

「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990


神/善神

 レスターは、キリスト教なきあとの世界を読み解く独自の教義を語っていた。世界の創造があまりに苦痛だったため、神は傷つき、ふたつに分裂してしまったというもの。一方は善としての善神(よがみ - Godness)、もう一方が悪である神(God)。神が災いをもたらす一方で、善神は悪からできるかぎりの善を引きだす。救世主は狂った神々と人間との橋渡し役としてこの世に遣わされ、古い世界の終わりを告げるのだという。




 問題人物が六十人、軍によってコーリアズ・フック公園で射殺された。清掃作業員が白いトラックで乗りつけて、それを赤い袋に入れて埋めた。あとになって、ある女性が埋め立て地に行ってみた。素手で土を掘り返すうち、その女性は夫を見つけた。他の人たちは毛布にくるみこみ直して、夫が独りで眠れるように運び去る。夫の新たな寝台に土を載せているあいだ、この女性を見守った人が、このあとどうするのかたずねた。食品雑貨店に行かなくては、と女性が言う。養う家族がいるんですもの、と。

「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990


異教徒

 「異教徒(ヒーズン)」。サッチャーの南部訛りを通すとそれが「ヒーザーン」となる。「同朋」からいちばん遠い言葉、まったくのエイリアン。徹底的な共感の欠如がその一語に集約されている。




 サッチャーの訛りのせいで、異教徒(ヒーズン)がヒーザーンと聞こえた。サッチャーの眼から見れば、誰もがヒーザーンなのだ――わたしの眼からも、そうなってしまっただろうか。ヒーザーンの世界ならヒーザーンの救世主がお似合い、ええ、でもわたしたちの世界は、わたしたちの病んだ世界は、すばらしい世界はどうだろう。この世界に似合わないのは、どちらだろう、この世界の救世主か、この世界の管理人か。

「ヒーザーン」黒丸尚訳 1990



 アンビエント達にレスターの教えを伝えたとされるジョアナの物語であり、レスター・マキャフリイの世界観が語られるという点でも、全盛期のドライデン夫妻のキャラクターが描かれるという点でも、シリーズの中でも重要度の高い一作。
 全てが「ひそか」な印象を与える小説である。人物たちのバックグラウンドについては意図的に部分的な情報しか与えられず、出来事の真相も水面下に隠されて、後々まで明らかにされない。ストーリーと直接関係のないところで、読者にも気づかれないほどさりげなく路上での誘拐が行われていたりする(これは実は第一長編のとある場面を連想させるものでもある)。
 アマゾンの書評などを見ると、前二作の派手なアクションを期待した読者からは否定的に受けとめられたようだが、主人公ジョアナの語りは端々に鋭い人間観察を覗かせ、さりげないだけに陰惨さがきわだつ暴力の描写も、静かなリアリティをたたえている。そして何よりも、レスターの語る神と善神の物語は、シリーズの根幹に関わる重要なものである 。