TERRAPLANE   [1988]




 お願い、とわたしは聞いた。とどめの銃声を聞き、振り返って見ようとはしなかった。その日の総計は七十九体。その総計を本部が希望するとおり形式的に倍にして、クロンファスがわれわれの成功を記載し、記録を送る。廃墟の中の爆発した容器の破片から、中にはガソリンの備蓄があったことがわかった。大人の姿はなかったが、この場所は伝統的な学校でもない。地下の冷蔵庫には、二人が這いこみ、あとからドアを引いて閉めた。その二人が窒息したのか焼け死んだのか、わたしたちにはわからなかった。

「テラプレーン」黒丸尚訳 1988


テラプレーン

 時系列では四番目となる第二長編。異なる歴史を歩んだもう一つの世界の存在が明らかになる。そこは、人種差別と疫病が人を刈り取る暗黒の社会だった。

 任務のために赴いたロシアから、突然の成り行きで同僚たちとこの世界に転移することになった主人公の退役将軍、ルーサー・ビガースタッフは、それまでほとんど意識せずにいた自分の黒人としてのアイデンティティを、予想もしなかった形で再認識することになる。




「悲鳴をあげるな、、、、傍点)
 ジェイクが叫ぶと、その声が壁に響きわたる。続けざまの前転を見るのは、天使が天国からくだってくるのを見るようだ。躍りあがったジェイクは男の肩胛骨の中間を蹴り、男が立木のように倒れる。ジェイクが男の背中に着地し、拳をふるって鋭く喉仏に叩きこむ。男が四肢を、エンジン過負荷のようにばたつかせ、痙攣に顔立ちがぼやける。

「テラプレーン」黒丸尚訳 1988


消費国家ロシア

 ものを買い、買い続けることが義務となった社会。クラースナヤという企業複合体に支配された21世紀のロシアでは、だれもがコマネズミのごとく経済の車輪を回転させることを強制され、拒否するものには過酷な懲罰が待っている。全体主義と資本主義の異常な混交が、役立たずの商品が並び、奇妙な殺気の漂うショッピングモールの風景を生み出した。




「一部が他の人間より早く、より幸せに、より裕福になるというのは、完璧に近いシステムでも避けがたい逆機能です」とスクラートフ、「いつかは金も、すべての社会成員に行き渡るのです」
「驚嘆すべき理論だ」
「アメリカでも長年、人気があったはずですが」
 スクラートフが言って、抜いた歯でも置くように、サッカリンを皿に載せ、
「ここでは、それがうまく行っています。新たな手法が、長らく防げられていた欲望を満たすのです。ロシアの民は今は金を持っていますから、とうとう豊富に入手できるようになった良質の商品を買えるのです」
「買わなくちゃならない、、、、傍点)
 ジェイクがそう言って、どこかに突き立てたいかのように、飛び出しナイフを指のあいだで持ち上げて回す。月々の購買割り当てに満たないロシア人は、消費パトロールの調査を受ける。ことがパトロールの手にも余ると、ドリーム・ティームが処分する。

「テラプレーン」黒丸尚訳 1988


もうひとつの世界

 アリョーヒン博士の転移装置が移動を可能にしたのは、異なる歴史を歩んだ平行世界だった。同時にそれは時間の進み方のずれから相対的な過去の世界でもあり、二重のカルチャーショックがルーサー達を襲う。次第に明らかになる二つの世界の相異は、この平行世界の未来が、ドライコの支配下にあるルーサー達の世界よりもさらに暗黒なものになる可能性を示唆していた。





「因果律が禁じている」
 わたしはそう言い、疑いを解くよりは納得しようと、
「ありえない」
「でも事実だ」
 ジェイクが言う。常識の障害が消え去った今、新たな眼でエンパイア・ステートを見ると、気づかなかった違いがすぐ眼についた。頂上のTV塔が欠けているのだ――あの建物が、針を欠いた注射器のように立っている。峰の端沿いに眼を走らせて、かなり欠けているのに気づいた――トレード・タワーズ、バッテリイ尖塔スパイア、バッテリイ公園、ワン・コロシアム、シティタワー、リンカン公園――すべて消えている。

「テラプレーン」黒丸尚訳 1988


人種差別

 「もうひとつの世界」のアメリカには極端な人種差別があった。ルーサーたちの世界に較べてより苛酷で、より長く続いた奴隷制の傷跡も癒えぬまま、アメリカに住む黒人たちにはなおも悲惨な日常が続いている。ルーサーは自身の経験の外にあったその実態を、身をもって味わうことになる。




 傷痕がドクの背中に刻まれているが、これは傷跡ではない――刺青の符号なしに伝えられたメッセージだった。ドクはブランド名を背負っているのだ――細長い卵形が、肩胛骨からケロイド状に盛り上がっている。卵形の上の曲線には、預かりなし。下には、返却なし。その輪の中央には、わたしたちが吸収する時代まで使われた旧式の字体で、あのマークがある――コカ=コーラ社所有、ジョージア州アトランタ

「テラプレーン」黒丸尚訳 1988


死病

 もうひとつの世界では、「ドヴラトフ症候群」なる死病が世界に大きな傷跡を残していた。「脳つぶし」とも呼ばれるその伝染病には治療法も予防法もなく、発病すれば、苦痛に満ちた罹病期間の後に必ず死にいたる。この死病が、この世界をさらに暗い方向へ押しやる役割を果たしたことをルーサー達は知る。




 第二長編では、読者の前にふたつの新しい世界が現れる。ひとつは、ドライコのアメリカと表向きの対立の陰で手を結ぶ近未来のロシア、もうひとつはパラレルワールドとしての「過去」のアメリカ。
 いずれも「Ambient」のアメリカと同等か、もしくはそれ以上に非現実的なディストピアだが、それぞれが違う病理を抱えており、ディストピアを描くことについてのウォマックの趣味の良さが充分に発揮されている。
 例によって社会の成り立ちや各種のテクノロジーについては大雑把な骨組みが示されるだけだが、細部の描写がそれを補い、ロシアのデパートに並んだ商品や、もう一つの世界で主人公たちが触れる「過去」の物たち、ビールの泡や時計の文字盤、車のトランクの蓋の予想外の重さなどが語り手ルーサーの感じるカルチャーショックを効果的に伝えている。