interview(5) - 2001



SF作家ポール・マコーリイとの相互インタビュー。おたがいの作品について色々質問し合うという形式。ここでは主にウォマックが答えている部分を抜き出した。ポール・マコーリイは、邦訳に長編「フェアリイ・ランド」、短編では「20世紀SF6」に収録されている「遺伝子戦争」などがある。内容を補足するために付け加えておくと、1955年のイギリス生まれで、ウォマックのひとつ年上にあたる。
「Going, Going, Gone」出版後のインタビューで、ドライコ・シリーズの結末にも触れています。原文を読まれる方はご注意を。(こちらの訳には載せていません)




[ http://www.infinityplus.co.uk/nonfiction/intpmca-jw.htm ]
[ http://www.omegacom.demon.co.uk/womack.htm ](ポール・マコーリイのサイトにあるもの)

 アメリカの歴史はどういうわけか間違った道を選んでしまい、あるいはチャンスを逃し、その結果現在のアメリカのランドスケープが暗く汚れたものになってしまった、という印象を持ったことはないですか?

アメリカの歴史は、ほとんどすべての局面において間違った道をたどってきたんじゃないかと思っています。リンカーンとフランクリン・D・ルーズヴェルトとマーティン・ルーサー・キング、この3人の努力だけがその例外ですね。我々の世界に似ているけれど、のちにドライコの世界となるものよりもさらに悪質な世界になりうる可能性を秘めたパラレルワールド、という考えを思いついた当初、私は単純に、この3人の人物がまったくアメリカの歴史に影響を及ぼさない世界を想定していました。歴史家たちは偉人理論(the Great Man theory)というものをあまり歓迎しない傾向にありますbbthe Great Person theoryと言うべきなんだろうけど、だれも一般にそういう理論を押し進めてくれていないようなので、古くさい語法はご勘弁をbbしかし、とりわけ個人主義が徹底されているアメリカにおいては、つねに人が考えるような形ではないにせよ、それを適用できる事例のほうが多いと思うんです。たとえば過去20年間の経済は、レーガンの存在があってもなくても、おおむね実際に進んできたのと同じような線をたどっただろうと思いますが、このところの常軌を逸した選挙戦の馬鹿騒ぎに至る今の共和党と民主党の醜い分裂は、レーガン抜きにはあり得なかったでしょう。

 我々は2001年というサイエンス・フィクション的に重要な年のとば口に立っていますが、ガーンズバックの麗しくもけばけばしいパルプ誌の表紙が約束してくれたような未来を全然手にしていませんね。この手に入れそこねた未来世界の、何が一番恋しいですか?

余暇と、その余暇を手に入れる能力が恋しいですね。ホースで水洗いできる家具もね。

 歳を取るにつれて、人はみな一番愉しかった年の記憶をずっと心に抱いていて、その人の一部はつねにその年を生きているものなんだと実感するようになりました。いまが2001年で、当然パンナムのシャトルで宇宙ステーションに行くことが出来てしかるべきだったとしても、私のなかの青年期の心はいまだに1975年を生きていて、デジタル時計の醜悪なデザインにがっかりするんですよ。
 そのことから、物事が一番大きく変わるのはそれぞれの世紀の半ばごろであるというのが理解できます。世紀の前半において変化にかかわる人々が、依然として前世紀を生きているわけだから。

 それは変化にかかわる人々に限ったことではないでしょうね――20世紀について結論を出すにはさらに長い年月が必要だと僕は思います。いまはファッション産業に80年代へのノスタルジーが蔓延してますよね、まったく勘弁してくれという感じの。21世紀に生まれた最初の世代が大人になってからでしょう――だいたい2020年ごろかな――本当の変化が見られるのは。これは、少なくともポップ・カルチャーに関して言うなら、どの10年期も実際には暦の上での10年期の半ばから始まって2年ほど後に終わるという、僕の考えにもぴったりと当てはまります。例えば、英国の60年代は1964年に始まって1973年で終わっている。「Going,Going,Gone」は自分たちがどこへ行こうとしていたのかを振り返るのに躍起になっているこの現代にとてもふさわしい本だと思うんです。シリーズはこれで完結ですが、このテーマについては今後も追求されますか?

いままでちゃんと考えたことはなかったけれど、大いに筋の通る話ですね。10年期のサイクルが実際にはいつ始まっていつ終わっているかというあなたの理論にはまったく賛成です。ただ、時に突然早くに終わってしまう10年期というのもあるとは思う。80年代というのは例えば87年の10月で終わっているし、激動の20年代も29年の同じく10月に終わっていますね。
 アメリカの60年代も、1964年にビートルズがやってきて、ケネディ暗殺後の弔いに終止符を打ったときに始まっています。私はどちらの出来事もはっきりと覚えています。当時は7歳だったけれど、ダラス以前、ダラス当時、そしてエド・サリヴァンとビートルズ以降の、ほとんど手で触れるほどの雰囲気ヴァイブの違いを思い出せます。大人たちのメンタリティを覆っていたもやもやしたものがぬぐい去られたという印象でした。
 ここ数年、ギブスンと私はなにかにつけ、この同時代の時流というもの――かたや精神における、かたや現実世界の上での――を話題にしてきました。特に、我々が少年時代の大部分を、まさに文字通りの意味で、彼が言うところの「テレビジョン以前の世界」で過ごしてきたことを考えるときに。同じ様な意味で、自分が大不況と第二次世界大戦の頃に育ったような気がすることもあります(一緒に暮らしていた我が祖父母のおかげですね)。あなたは時々、あの戦争や、配給だとかの生々しい記憶がよみがえってくるような気持ちになることはないですか?

 それはもう確かに。あなたと同じように、僕もベビー・ブーマー世代の最後に生まれたから、第二次大戦はリアルな少年時代の体験です(僕に関しては、第一次大戦も同様です。祖父母は隣に住んでいて、祖父は第一次大戦での捕虜体験をついに克服できずにいたので)。配給は思い出せないけれど、僕が生まれたころにはまだ戦争は本当には終わっていなかったし、それは60年代の終わりまで続いて、そして、そう、ビートルズ、あれでようやく終戦後の灰色の厳粛さから浮上しはじめたように思えたんですよ。あなたの国の、ランチハウスや、自己洗浄式のキッチンや、宇宙船サイズの車や、オーブン大のテレビ!あれがどれだけうらやましかったか。

「Going, Going, Gone」を書くにあたって、私は、同時に二つの時代が意識に登るという感覚を、知性で感じられるのと同じくらい、感情的にも――肉体的にも――実感できるように描こうとしていたと思います。これを徹底させるのはとてもむずかしかった。

 グレイル・マーカスの「Invisible Republic」と「 Going, Going, Gone 」との間に緩やかな関連を見ることは正しいんでしょうか?後者もまた、あり得たかもしれない、亡霊じみたアメリカの「見えない共和国」を舞台にとったといえる作品ですが。

「Invisible Republic」に私はかぶれてしまったので、それは「Going, Going, Gone」にも伝染しています。マーカスのこの本は、私が結核でとても具合が悪いときに世に出て、隔離病室のなかで何度も読み返したうちの一冊です。あの本に書かれた1920年代と30年代の音楽にどっぷり浸らせてもらって、自身のルーツへの賞賛の念と、距離としてはさほど隔たっていないというのに、いかに自分が遠くへ来てしまったかということへの自覚を深めることになりました。
 1997年という年に、私は思い出に苦しめられていました。近い過去に生起したあれこれの出来事の記憶や、選ばれなかった道すじの記憶、私自身の人生のなかでなされることのなかった行動の記憶に。
 「Going, Going, Gone」の幕開けとして引用されているバロウズの文は、私にとっては大きな救いだったんです。彼が死んだ4ヶ月ほど後にあれを読んで、あの場所に置くべき重要な文だと思いました。
 こういった事はこの「Going, Going, Gone」という本についての有用な情報になるでしょう。とは言え、私のすべての本において、知覚されるレベルでなくともサブテキストのレベルにおいては、語られなかったことが、語られたことと同じくらい、ときにはそれ以上に、重要なのだと思います。

 このジャンルで書くことの問題の一部は、自分自身のなにもかもを作品に投入する作家が充分にいないことにあるとは思いませんか?このことが、なぜワークショップや小説講座がこんなにも人気なのか、なぜ技巧がほかのなによりも、たとえば思春期前の不安とないまぜになった大人の赤裸な感情というようなものよりも重要視されたり、恋愛の描写が性交の場面で代用されたりということになるかを説明していると思うんですよ。

フィクションの大部分についてそれは言えることでしょうね。私はというと、実際のところ、自分の作品から距離をおくことができたためしがありません。もし何かしら極端な反応が私の本に対してbb好きになるなり嫌うなりbb起こるとすれば、それは私のキャラクターたちの強い情動(と、それに対する読者の感情(本能)的な反応)が、言葉の難解さ(否、時としてはその曖昧さ)よりも大きな役目をはたすからではないかと思います。

 大抵の作家よりもあなたは優れた言葉をものにしていると思います。平凡な言い回しを避けるためにこれほど力をそそいでいる作家はそういないですよ。声(ヴォイス)は物語(ナラティヴ)と同じくらい重要だと思いますか?

牽き馬と馬車の関係ですね。ジャズみたいなものかな。書く前にそれが聞こえてこなければ、正しく書くことはできません。