元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。

インタビュー:2025年2月16日
公開日:2025年4月x日
いろんな方にインタビューをするために、コーナーの変遷を調べて作ってたんですが、そうしたらジュリーさんの名前が、'82年ぐらいから休刊('95年)に至るまで、十数年にわたって出てくるんですね。それで、今日のインタビューの前半の方はこの頃のお話を伺いたくて、後半は取り上げていらした作品と、時代の流れについてお聞きしたいんです。
いちばん最初はなんだろうね、『よたろうランド』[1]?
よたろうランドのちょっと前に、’82年ごろですか、カラーページのセル画を描かれていたんですかね。
私は高校がデザイン科で、絵を描いたりしていたので、その頃からアニメックス[2]を集めてるっていうか、持ってたんですよ。セル画って、道具がないと描けないから。道具がある人に発注をかけてきたのかな?
私が高校3年の時、やぎざわさん[3]は卒業して専門学校行こうかっていう時に、すでに一緒に彼女と同人誌をやっていて、そのままあの人が月刊OUTのカット描きになったので、じゃあ一緒にセル画を描こうかっていう話になったんじゃなかったかな。で、とにかくアニメックスと、今やもう売っていない生セルで、いくつかセル画をやらせていただきましたね。あと、表紙をやった…芦田さんの原画で何かをやって。
それからバナナグローブの榎本さん[4]が、競馬か何かの雑誌の表紙をやってほしい、榎本さんが原画を描くからって。ものすごく細かい、いっぱいキャラクターがいる、というのをやったんです。だから私、動画でセルを仕上げるっていうのは1回しかやったことがなくて、全部止まってるイラストっていう関係ばっかり。
きっと多分、プロの人を捕まえると、それはそれで大変だと思うんですよ。つまり、向こうは向こうで原画とかセル塗りの仕事をして、片手間にこれをやるとなると、手間がかかって時間がないから。だから私みたいな隙間産業の人が(笑)よかったんじゃないですか。
同人誌っておっしゃってましたけど、そういうお仕事をしながら同人誌をやられてたんですか。
そうですね。最初にやぎざわと知り合ったのも同人誌。あの頃はまだオタクとか腐女子という名前もなくて、ただテレビ漫画が好きというね。最初は『ガッチャマン』[5]ですよ。JFC、「コンドルのジョー・ファンクラブ」というのがございまして。スタッフをやるって私が名乗りを上げたら、そこの会長が連れてきたのがやぎざわ梨穂。学校が一緒だったのね、あの2人。
そこで知り合って、やぎざわさんの家に行って、アシスタントっていうか、本当に同人誌でしたけどね、その頃は。ベタ塗ったりカケアミやったりだとかのアシスタントをやってるうちに、そのうちあの人がプロの仕事を始めて、私もズルズルズルってやってたって感じですかね。
それは高校生の頃?
高校卒業して直後ぐらいですね。その頃、私とやぎざわさんもやってたスタジオ・マリン[6]っていう集団がありまして。そこのリーダーっていう人がOUTでも仕事してたり、徳間書店のロマンアルバム[7]の仕事をしていて、どういうきっかけだったんだか知らないけど、『六神合体ゴッドマーズ』[8]っていう作品の、ロマンアルバムをまるっと1冊請け負ってやってくれないかって話になったらしくって。スタジオ・マリンの中だけで回すってことになるから手伝ってほしい、って言われて、やりました。
そしたら今度は、徳間書店のロマンアルバムの編集長に「よかったらうちで直にやるか」って言われて、やりますって言って。で、ロマンアルバムを何冊か作って、最後の方は並行してOUTをやるようになった。ロマンアルバムは、『ゴッドマーズ』、『ザブングル』[9]、あと何をやったかな。あの辺のサンライズ三作品は手伝ったんだ。その後に自分で『J9シリーズ』[10]がやりたくて、J9を1・2と出して、そこでロマンアルバムの仕事は終わったんですよ。
それで完全にみのり書房のOUTの方へ私は行って、よたろうランドの選者をやるんですね。岩崎摂がもう忙しくてよたろうランドをやめるので、その後釜としてCさんから「じゃあ、ジュリーさんやらない?」っていう話が来て、もらったのかな。
そのよたろうランドが増刊で単行本になっています。
(単行本を見ながら)そうそう、これ。Cさん[11]がほとんど編集をやって、その間に私らが自分たちのよたろう話を入れてもらって、って感じで1冊作った本がこれですね。よたランだけじゃなくて、いろんなコーナーの本が増刊として出てたんじゃなかったですかね。
そうですね。投稿コーナーは『ザ・コン作品集』[12]があって、その後に『よたろうランド』。『ゆう坊のでたとこまかせ』[13]が出たのはちょっと後かな。それで、このよたランの本が出た後にサイン会があったんですね。
サイン会は、横浜でやった[14]。アニメイトかな。いい経験をさせていただきました。(写真を見ながら)そうそう、ぱんだのよめいり[15]とかね。こっちは岩崎摂さん[16]。
お客さんは来たんですか。
まあ、まあまあかな。そんなにたくさんとは言わないけど、でもいい感じのイベントでしたね。
今、このよたろうランドの本を読むと、この投稿された写真のところが面白くて、タイトルの付け方が素晴らしい。この「ジムシー」っていうのがすごく面白い。「団地妻」っていうのも好きです。[17]
やっぱりそれぞれの方々のね、センスがありましてよかったですよね。あの頃はこういう、なんて言うんですか、ハガキ職人がいっぱいいた、みんなそれぞれにセンスある人が。逆に今こういう人たちはどこにいるの?って感じ。また違う雑誌にいるんですかね。みんなネットにいるのかな。
同じころに、このミーハー特集[18]っていう、アニメのカラーのページを2ページ持っていらしたようなんですが。
これね、もう時効だと思うから言うけど…っていうか皆さんご存知かもしれませんけど、結局、『北斗の拳』[19]とか『キャプテン翼』[20]は、集英社・東映アニメじゃないですか。この線で繋がっちゃった作品はすっごい制約がかかってて、この2ページやるだけでもすごいお金かかるんですって。
で、そこにこの写真を使おうっていうので、またページに1枚いくらっていう制約がつき、しかもこれ使うのに、写真の版がなきゃダメじゃないですか。それをいちいち焼きましたってことで、いくらか(使用料が)かかるんです。で、プラスアルファ何かまたかかるんだけど、でもこれどう見てもさ、前にどこかが使ったやつを使い回してるよね。
例えばこの頃のサンライズとか芦田さんのところ[21]とかでは、「今度特集したいんです、何話のやつの写真が欲しいんです」っていうと、36ミリや18ミリのフィルムを貸してくれたので、切って使ったり、接写して使ったりとかできたんです。私がロマンアルバムでやってたのは、フィルムを写真で接写して、その写真を使うっていう風にやってたんだけどね。
でも(制約のあるところは)絶対に自分のところで焼くし、使用料をもらいます、じゃあ使ったんなら返してねっていうので、担当とか編集長からは「絶対にページに何枚しか写真載っけちゃダメ」とか、「できるだけ大きく写真使いなさい」とか、いろいろと言われました。
ただ、この路線は、昔で言うところの女性向けのアニメなんで、私のところに回ってくるんですね。他の皆さんは…あのころ、何をやってたころかな、サンライズアニメだとかね、美少女アニメ、芦田さんのところのアニメだとかを担当してて。私は必ずこの2ページずつをやってました。
北斗の拳は女の子向けだったんですか。
いちおうね、キャラクターがそういうことになってた。私はとにかく塩沢兼人さん[22]のファンだったので、塩沢さんが出てるアニメはぜんぶ見てるようなもので、あんまり見たくないとは言わずに見てた。だからもう、南斗水鳥拳(レイ)[23]がいるから見てる、みたいな。(ページを見ながら)だからあそこにもここにもレイが載ってるっていうね。あそこにも、ここにも、ん、もっといるわ。これ、南斗水鳥拳の特集ですね。[24]
なるほど、これはだから、趣味が全開してるわけですね。
そうそうそう、そういうことだから、ミーハー特集なんじゃないですかね。
その、「ミーハー」っていう言葉が、タイトルみたいに常についているんですが、編集部の中でそういう立ち位置っていう感じだったんでしょうか。
そうだったんでしょうね。オタクっていうのは、やっぱりもっと掘り下げて、言っちゃえば、マニアックな感じだった。ミーハーっていって、本当に「きゃーっ」ていう勢いだけでやっちゃうっていうのが、私の立ち位置だったっていう感じはありますよね。だってやっぱり他のページをやってらっしゃる方々は、もっと学術的にやってるような、そういう感じの方々だったでしょ。
考察とか分析とか、辞典作ったりとか。
そうそう。でもうちはそうじゃない。そんな難しいことどうでもいいんだよ、私は(笑)。そういう、ミーハー。たぶんそれが通じる作品が私のとこにみんな集まってきたんですよね。だから、サンライズ作品でもそういう感じの、美少年ものは私のとこに来るってことになってた。
たぶんそのころ、編集部もそういう立ち位置…って言っちゃうとちょっと語弊があるかもしれないですけど、そういうところを求めてたんじゃないかなと思うんですよね。
この頃のオタクというとなんとなく、みんな暗くてセル持ち歩いて…みたいなイメージになってるみたいだけど、(OUT編集部には)どっちかというとインテリで、大学で論文書いちゃいそうな方々がいっぱいいたのでね。それで須田留貧くん[25]とかは、もっと自分のやりたい特撮を、お友達もいっぱい引き込んで色々やってたみたいだし。うちはうちで、私はここに残ってるけど、やぎざわとかはそのうちみんなアニパロコミックスの方に行っちゃうしね。
そのあと北沢U介さんのコーナー(『U介・健二のアニソン・スクランブル』[26])を引き継いで、84年10月号から『ジュリー・梨穂の勝手に盤まわし』[27]が始まります。
これまたU介さんがちょっとやれないっていうことで。次、ジュリーさんとやぎざわさんと二人でやらない?っていう話で、じゃあ二人で掛け合いでやるか、って。当時はパソコンじゃないですからね。例えば彼女が原稿やりながらでも、私が原稿用紙にカーッと書いて、はい次って言って渡して、で、彼女がまた書いて、はいはい、またお次って戻してきて、書いて…ってそういう掛け合いの世界でやってた。だからテープ起こしでもないんですよ。
最初は編集さんがレコードを…当時はまだCDじゃないですよ…持ってきてくれたのを我々が受け取ってやってたんだけど、あるときから私が取りに行くことになってね。LPを持って帰ってくるの大変なんですよ。 でかくて、重くて。
レコード会社に取りに行ってたんですか。
そう、だからビクター・コロンビア・キングレコードね。「何月何日に取りに来てほしいって言ってんだけど、行けますか」って言われて、「はい」って行って、もらって帰ってきて、そのまま例えば、やぎざわの家に行って。やぎざわのところにはレコードプレーヤーがあったので、それを2人で聞きながら原稿をやる。
その合間に、山本正之さん[28]のライブが今度あるから行かない?とか、そういう話が…レコード会社かどこから来たのか忘れたけど、それで行かせてもらったりしました。
そのレコードのセレクションというのは、向こうから今月これおすすめですよ、みたいな感じなんですか?
ある程度してたのかもしれないけど、こっちでかなり勝手にやってたんですよね。全部は載せられないので、ビクターからこれ、編集部がこれをやってっていうのは確かにあったんですけど。一回ね、レコード会社から、『スター・トレック』のBGM集か何かを推してきたんですよ。で、聴いたら、なんかシューッとか、宇宙空間のなんとかの音みたいな内容で。
「趣味の人にはいいと思うんですけど、趣味の人だけは聞いてください」って書いて出したら、普通は赤が入って、「この文章は書き直しなさい」って言われるんだと思うんですけど、編集部はそのまま載っけちゃった。で、レコード会社に行ったら、「うんうん、確かにその通りの感想だ」って言ってたんだけど、後になって編集部の方で、「ちょっとね、こういうことは書いちゃいけないんだよ」って言うんだよ。(一同爆笑) だってもう原稿は出して、ちゃんと見てもらってるんだから(笑)。
サントラだったらもうそれ以外書きようがない。
そうそう、あとは趣味の問題ですよね。個人の名前を出してやってるコーナーだから、個人の感想でいいと私は思ってたわけ。だから私は、じゃあ自分の個人的意見、浅倉ジュリーがこれを聞いて何を思ったかってことをもっとちゃんと書けるようなのが欲しい。勝手に辛口のことも言っていいようなものがやりたいと思ったから、自分のコーナーで『極楽まっしぐら』とかをやったのかも。
なるほど。いいのはすごく持ち上げてますけど、そうでないのはそんなに上げる感じで書いてないなと思いながらこの頃の記事を読んでたんですけど、いわゆるヨイショはそんなにしてないですね。
うん、そう。自分たちの趣味でやってるから。趣味じゃないけど載せたいのは記事の下の方にアルバムジャケットの写真をずらずらっと並べるとかなんかしてあるんじゃないかな。
ちょっと話がずれるかもしれないですけど、これを読んでて面白かったのが、アニメのタイトルのアルバムで、副題にハイテックとかデジタルトリップ・ジャムトリップとありますが[29]、これってどういうものだったんでしょうか。アニソンのディスコみたいなものですか?
『カレンダーガール ロマントリップ』[30]ってなんだろうね? それは多分むこうがつけてきたタイトルでしょうね。
アニメのサントラを全部デジタル音にして、シンセサイザーミュージックとして再表現したっていうものだった。
よく覚えてるねえ。
のちにデパートとかでBGMに使われてそうな感じのやつでしょうね。
盤まわしの記事に意外とこういうのがたくさん載っていて、「もっとこの作品もデジタル・トリップにしてほしい」とか、「いまいち合わない」みたいなことが書かれていて、意外とこの頃はお気に入りだったのかな。
そうですね。もうね、はるか昔の話だから。記憶の彼方の彼方ですね。ただただ、毎月やぎざわさんのところに行って2人でぼそぼそ書いてたなっていうのと、レコードを取りに行くのが大変だったわって記憶しかないかな。
アニソンの文化的な歴史みたいなものもあると思うんです。小学生向けの主題歌であった時代から、だんだん大人の文化を入れてきた頃なのかなと、その記事を読みながら思ったんです。
やぎざわが日本ビクターのペーパーを担当してた時期があって、私もそれの手伝いをしたりして、その時に『メガゾーン23』[31]という作品が出てきたんですよ。
それまでは、アニメとその主題歌というと、必ずと言っていいほどタイトルが入ってますよ、みたいな感じだった。だいたいその辺りまでは、ビクターレコードやコロンビアでささきいさお[32]・水木一郎[33]といった人たちが歌ってるものだったのが、だんだん崩れてきて、他の人たちが入ってきて、全然アニメの内容と関係のないものが曲・歌詞になって。普通のアニメの内容のものじゃない音楽・主題歌の方がおしゃれになってきたのが、あの時期だよねっていうのは、覚えてるんですけどね。
そこからだんだん、アニメらしい曲もあれば、ポピュラー音楽っぽい曲のものもあるようになって、そのうちにデビューしたてのミュージシャンを売るための場所になっていったって感じで。あの頃はそういう時期だったのかなって思いますね。
そのうちね、『SLAM DUNK』[34]だの、『るろ剣』[35]だの、主題歌がこんなに1年間で何人も変わっていくなんざ、びっくりだよ! タイアップですね。それまでは1年間おなじ曲でずっとやっててね、みんなで合唱してて、これは何の主題歌だっていっても、曲の中にちゃんとタイトル入れてるから大丈夫って感じだったのにね。変わってったよね。
そうですね。今売れるバンドはみんなアニメの主題歌やりますもんね。
アニメの主題歌をやると、アニメファンがみんな必ず聴いて買って歌って応援しますから。その点、アニメの主題歌って強いよねとか思っちゃいますよね。
僕が子供の頃、『キャッツ・アイ』[36]が紅白歌合戦に出たんですよ(1983年)。それですごく快哉を叫んだ記憶があって。
あれも歌ってる方が、ある程度の知名度の方が歌うから、それにタイアップでくっついてくみたいな…誰が始めたのか知らないけど、いい戦略ではありますよね。
その頃のファンの人ってそういう動きはどう見てたんですかね。「自分たちの好きなところからそんなところに持っていってくれるなよ」みたいな気持ちはあったんでしょうか。
そういうマイナスの話は私は聞いてないですけどね。もうみんな本当に、「キャッツ・アイと言ったらこれ」ってね、そういうのに乗っちゃってるから、そんなにマイナスの方には行かなかった。
このあたりからミーパラの話になっていくかと思うんですが、『梨穂とジュリーの勝手に盤まわし』から『梨穂とジュリーの勝手にセレクション』[37]になり、その後、ジュリーさんの『ミーハー極楽(パラダイス)まっしぐら』[38]というコーナーになっていきます。ミーパラで音楽をやりましょうというのは、これもジュリーさんが持ちかけたんですか。
どうだったですかね。音楽コーナーもやってたし、ミーハーもやりたいし、みたいな感じでね。結局、私がTHE ALFEE[39]ファンになって、バンドというものにとっても注目して、あの頃、バンドファンがいっぱい有象無象にいたから、その辺もちょっと突っついてみますかって。それで担当さんですごく音楽が好きな人がいたりして、話が合ったんじゃないですかね。
この少し前かな、久石譲さんにインタビューされてますね。[40]
行きましたね、スタジオに。
これは久石さんの若い頃のすごくかっこいい写真で。
向こうから、これ使ってくださいねってもらった写真だと思います。
今の、巨匠っていう感じではないですね。
うん、まだ新進気鋭って感じです。
久石さんはこの頃ミニマルミュージックをやってたり、ニューウェーブとか民族音楽系とか、そういう音楽もやられていたんですよね。
なぜここで久石さんのインタビューを取ろうと思ったのかは私もよく知らないんだけど、たぶん他の方々が喋って、私はそれを後でテープ起こしするのでとりあえず聞いてなきゃいけないっていうので、くっついて行ったんです。久石さんのところに最新鋭のシンセサイザーがあって、「あ、やっぱりすごいな」と思ってそれを眺めたっていうのをすごく覚えてますね。あの頃は久石さんも、そんなにまだ今みたいな巨匠じゃないから。いろいろやってますよね。そのあたりで突っ込んでみたかったんですかね、OUTとしては。
この辺のくだりがすごく面白くて、「サングラスかけてかっこよく登場」っていうので久石さんを絶句させてるっていう。[41]
ほんとだ(笑)。
その流れでバンドの話をお聞きしたいんですが、THE ALFEEが好きだっていうので、年に一回ぐらい、THE ALFEEの特集ページが出てきてますね。
普通だったらばさ、「またやるの?」とかさ、「うちはアニメ雑誌なんだからそういうのはダメよ」っておっしゃるじゃないですか。だけどこの雑誌は、「やりたかったらやれば」。当時THE ALFEEはポニーキャニオンで、私はそこにもちゃんと毎月毎月(レコードを)取りに行ってたから、そこの担当に「私はTHE ALFEEが好きなんです」って言っとくと、「じゃあまた何かあったら出してあげるよ」みたいな感じで言っていただいてた。
メンバーにインタビューを持ちかけたみたいな話もあります。[42]
インタビューはしてないけど、新譜の発表会みたいのに潜り込ませていただいたことがあって、その時に特集ページをもらった覚えがある。
そのぐらいやってるとメンバーからも覚えられてるんじゃないんですか。
いや、どうでしょう。向こうはアニメ雑誌なんて屁でもないからね。
『レンズマン』[43]は?
あれはね、もっとずっと昔ですよ。レンズマンは、私がまだ徳間書店で仕事をしてた時に、担当が試写会があるから行くって言って、当時の銀座のヤマハホールへ見に行って、2階に登ってって。「そこにさあ、高見沢俊彦、坂崎幸之助、桜井 賢って名前が貼ってあるんだけどさ」とか言って、ふっと後ろ振り向いたら、坂崎さんと桜井さんがニコニコしながら歩いてきて、「1人足りないよ」って言ってたら、また1人、「遅れてやってきたよ、3人目」って。それが、私があの3人を生で見る初めてでした、という。そこから始まってるね、私のTHE ALFEEは。
当時読んでて「お、またALFEE特集だ、この人好きだからね」って思ってました。それでまたちゃんと読者が投稿してくれてたんですよね。結構ハガキはあったんですか。
ありました。あの頃はちょうどTHE ALFEEの人気がダーッと上がって来たところかな。そのあとはまた落ち着いてるところがあるから、きっと私は上がり始めのところでやってたんだろうなという気はします。バンドブームでしたよね、あの時期ね。(記事と投稿を見ながら)カールスモーキー石井じゃないですか。あとTMネットワークだのBOØWYだの、レッド・ウォーリアーズ…。さだまさしのファンもいるし、そこに田中義剛が出てくるし。(※インタビューの前に、田中義剛のファンからテープを送ってもらって、そこで田中義剛を知ったという話で盛りあがった)
そういう、読者に教えられて知ってファンになったみたいなのもたくさんあるんですか?
そういうこともありますよね。すごく推してきてくれて…今で言うところの推しですよね。こっちはそれでレコードもらって聴いて、良ければ、自分にマッチすればね。
そのあとミーパラのページはだんだんアニメの方が主体になってきて。
そうそう、やっぱりね、アニメに戻さんといかんねと思って。担当がちゃんとアニメをやりましょうと言ってくれて、路線を少し戻したりした。
みんなで人気投票[44]をやったりなんて、ちょっと他の方々はやらないでしょ。ゆう坊のところとかは、やるとしても、読者の投稿に対しての人気投票。こういうキャラクターとか、本当にミーハーでしょ。ミーハー以外の何者でもないよね。そして、1人で何十、何百枚もハガキを送ってきてくれてね。
200枚とか1000枚[45]なんて書かれてるのがありましたね。
そう、(ハガキを何枚もめくる手つきをしながら)こうやって、「まだいるよ、これ」って、やってたんですよね。
小説の人気投票で、『ドグラ・マグラ』が1位になってましたね。[46]
それは多分ね、ひとりの人。
ひとりでドグラ・マグラに投票するハガキを200枚。そう、そこはすごくOUTらしいなと思って。
私も一番最初にOUTを知ったのは、横溝正史特集の、最初の号ですよ。
それは創刊号ですか?[47]
そうですね。いつも行く本屋さんで「なんだ、OUTって?」と手に取って、「あれ、金田一耕助か」ってパラパラパラっと見て、買おうかと思ったけど、ちょっと高いからやめた。それで次の月に行ったら、「えっ、なんでヤマト!?」[48]みたいな。で、それは買っちゃいました。
へええ、本当に最初期から。
そう、そこから始まってますから。
小説とかバンドの特集を見ると、その当時の人気をまんべんなく…でもなくって、ここのコーナーの読者に特有の偏りがある感じが面白くて、それが一体どういう偏りなんだろうって。
あ、そうでしょうね。それはきっと、私の偏り。
ジュリーさんの取り上げてきた作品を見て、それを好きになった人がみんなこのコーナーにつくと。
最近知ったんだけど、ここに投稿してくれてた方と話をしてね、「これを推せばジュリーさん好きでしょっていうのを私は投稿していた」って。載りたいから、これだったらジュリーさん絶対好きだよねって投稿したって言ってた人がいて、そういうこともあるよねっていうね。だいたい私の文章を毎月読んでれば、どれだったら載ったけど、これは載らないなっていうのはわかるよねっていう、そこは確かに思いました。
やっぱりそういういいフィードバックがありますよね。
ありますよね。それは仕方がないと思っていただいて。
それはやはりご自身の名前を冠してやってるコーナーだからこそ、という。
そうです。そう思ってました。
いまだにこの頃の読者の方との付き合いってあるんですか。
さすがに今はあんまりないですね。こうやってまさか今更インタビューされるとは…。
はい。驚かれたと思いますけれども。
だから月刊OUTっていうのは、何かやっぱり特別だったんでしょうね。ファンロード[49]にはファンロードの魅力があったでしょうし、アニメージュ[50]とかマイアニメ[51]とか色々ありましたけど、それとはやっぱり違う何かがあったんだろうなっていう気はします。やっぱりあちらはどっちかっていうとこう、アニメをとにかく紹介して、投稿コーナーだってただ作品いいですねで終わっちゃう。でも、OUTはもうちょっと何かが違うような気もします。
それこそRIIさんの追悼イベント[52]の時もそう。そこでみんなでお弔いをやっちゃおうっていう、それはすごいなと思いましたね。あんなに色々と昔の知り合いと顔を合わせるとは思わなかったし、みんなお忙しいだろうに、じゃあ行こうかって出てくるというのは、すごいなと思いました。
我々はこの企画で月刊OUTを捉え直すっていうのをテーマにしています。3本柱である「アニメ」「パロディ」「読者投稿」のほかに、いろんな本とか音楽とかコミックの紹介などの雑多なものがOUTにはあったのですが、どうしてもアニメ雑誌の括りになると「アニメ」から見た歴史でしか語られない。だからアニメじゃない他のいろんな軸から見ていくのが、OUTの位置付けを見直すということでは大事かなと。その中で、ジュリーさんは非常に間口が広いコーナーを担当されていたんじゃないかなと思っているんです。
いや、本人はそんなに特に何を考えてどうした、ということはなくて、単に自分の「今度の4月から始まる番組はどれがいい!」って…昔は今みたいに12回で終わるんじゃなくて、1年間のアニメでしたからね。じゃあ次は何がある、次は何がある、って言って、またこの漫画がアニメになるの、じゃあジュリーさんやる?みたいな感じで回ってきてたので。それで一回やりますって言っちゃえば、もうその番組が終わるまでは私のコーナーでやっていくという、そういう感じだったのでね。
とにかく月刊OUTっていうのは最初から、ちょっと編集と顔見知りになって、「私もなんとかがやりたいな」っていうと、「そう、じゃあやる?」みたいな、そういう感じだった。
だって、どこかに書いてあるけどさ、岩崎摂さんが漫画を描き始めたきっかけなんて本当に、事務仕事をやってたけどその仕事がなくなるからって、摂さんが「私もここで仕事がしたい」って言ったら、「じゃあカット書く?」って、そんな軽いノリで始まっちゃうみたいな、そういうことらしいからね。
やぎざわだってね、その前に描いていた人から受け継いで留止さん[53]の小説のカットを描き初めて…。そういう、誰かが一人いると、十人それにくっついてきそうな、そういうところだったわけですよ。
だから、私のミーハーパラダイスを始めるときも、「男の子向けの、オタクっぽい論文っぽい感じじゃなく、もっとこう、きゃっと弾けるような投稿コーナーがやりたいな」って言ったら、「そう、じゃあやれば」って、3ページあげるよっていう、本当にそういうノリで。とりあえずやってみれば、募集かけてみればって簡単に始まって、それで皆様方がそれなりに投稿してくださって。
トルーパー[54]のね、もう毎月毎月こんなにイラストどうやって描いてるんだろうって思うぐらいに投稿してきてくださる方がいたりして。だから、そりゃもうゆう坊のところとかから比べれば少ないんでしょうけど、それでもなんとかページを持たせていただいて、やってきた。
私もね、大徳さん[55]に「じゃあやれば」の一言で引き込まれてますから。で、途中からCさんの方へ行って、女性陣は『アニパロコミックス』[56]の方へ。ほら、男性と一緒で、もっとマニアックな女性はOUTの方に行くけど、もうちょっと普通の人たちはアニパロコミックスの方へ流れていったっていう感じはあるんじゃないかな。
確かにアニバロで描いてる作者さんは女性が多いですね。
男性は2人ぐらいですかね。それはね、編集長のCさんが、色気を求めない、お笑いだけを求める。あの当時、本当だったらもっと、やおい[57]っていうものが絡まった何かとか、男同士の物語とか、そういうのがあってもいいはずなんだけど、Cさん自身も男性だから、そういうのはあんまり好きじゃなくてね。
Cさんはお笑いが好きだから、それができる人たちをCさんの好みでピックアップして出来上がってるので。Cさんの趣味で作った本だったと思うんですよ。そこでアニパロ漫画が描きたい人たちはみんなアニパロコミックスへ。
だから男性が少なかったんじゃないかな。最初からアニパロコミックスに投稿してきた男性が引っかかっただけっていう。ぱんだのよめいりとかは、OUTの方でやってたけどね。岩崎摂・浪花愛[58]・やぎざわ梨穂、みんな女性陣ですからね。
話を戻しますが、「なんでもBEST10!」の『サムライトルーパー』の回とか、結構なハガキの数(7408票)ですよね。[59]
たぶん『でたまか』より多いと思うんです。でたまかで、うわ、すごくハガキが来たっていう回が時々あるんですけど、それでもこんな8000通なんて書いてなかったと思うんですよ。[60]
いや、これは投票だから。「キャラの名前だけ書いてある」というのもありましたよ。でも手書きでよく書いたよね。今だったらコピーとかパソコンでやっちゃうんだろうけど、表書きはともかく、裏はもう本当に「ワタル」「ワタル」「ワタル」[61]って書いて送ってきたとか。いちいちそれに何か書いてあるみたいな感じではない。あとは組織票[62]だったりなんだったりかな。
それで一番すごかったのは、さっきも出たけど、トルーパーの彼女が全部手描きでイラストを付けてきた。すごかったよね。 [63]
はるかわたるっていう投稿者が魔神英雄伝ワタル特集('90年6月号)で1042票ってあったのが一番多かったですかね。
とにかくこれをやってると、女の子たちはいま何のアニメが好きなんだっていうのが編集としてわかるという、多分それもあったと思うんですよ。あとはそれに乗って、それの特集が組めればいいよね。だけど東映だったりサンライズだったりが自由にさせてくれなくなって、その特集をだんだんとやれなくなっちゃった。シュラト[64]だってトルーパーだって、みんな好きでやってたから、制約のせいで「そこはできないよ」っていうところをかいくぐって、これは2次創作です…当時は「パロディです」と言って、パロディを載っけてた。
読者のパロディ漫画がいっぱい載ってましたもんね。
パロディは、いうところのグレーゾーンだからというので、見逃してもらってたんじゃないですかね。
読者のハガキも。
そう、同じでしょ。読者が描いたものであって、その大元のものを載っけてるわけじゃない。
いろんな作品のコーナーで、すごくいろんな人が載ってる印象があって、同じ人があんまり載っていない気がしたんです。間口が広いから、ネタや面白さを考えなくても、その好きの熱量だけでここに載れるかもって。
そうそう、他の投稿コーナーだったらね、笑いが取れないと、とか、どこか一本つき詰めるものがないと、ってことでしょうけど、ここは本当に、「好きです!」っていうその熱量を私に教えてください、みたいな感じですからね。あのハガキの数も熱量の1つだしね。
デザインの話で、もうちょっと前の時代ですかね。ミーハーパラダイスを始めた頃のデザインがOUTの他のコーナーのページと比べて、すごく80年代ポップみたいな、その当時とすれば、よりもうちょっと流行というか、そういう感じを受けたんですが。
レイアウトと、その全体的な雰囲気。それはきっとバナナグローブさんの力ですね。どうやってやってたかねー。タイトルと、これはここの位置でって、ぽいって上げると、向こうが字数やなんかを全部計算して出してくれるんで、それで後で文字を入れたような気がする。
ジュリーさんのコーナーだからって、雰囲気に合わせてやってくれたんですかね。
かもしれません。あと、向こうも担当の方が1人ついて毎月やってくれてたのかもしれない。そういえば担当のお兄さんがいらっしゃったから、その人のセンスじゃないですかね。OUTを1冊まるっと全部、バナナグローブと、どこか2、3か所ぐらいでやってたような気がしたけど。そこは編集さんじゃないとわかんないか。
(誌面を見ながら)これ、やっぱりレイアウターの方がお上手。こういう風にハガキをちょっと斜めにするとかね、そのあたりはお上手ですね、さすがですねって、いま見てても思います。
あとね、実は私、このころDTP[65]の仕事をしてて、編集が「何だったらDTPで全部やってくれれば、そのお金も払いますよ」と言ってくれて、それで私がDTPも全部やったのが何回かあるんですけど、多分これ(’95年5月号・休刊号)だね、この罫線がとっても素っ気ない感じが(笑)。私が使ってたのは、今みたいにマッキントッシュとかじゃないからね。
そうですね、まだInDesign[66]はないですね。
そういうデザインも内容の一つだからね。私は、ソニーのUNIXマシンに、ソフトとしては使用料金含めてで500万円かかるすっごい高いソフトで、それこそ小学館とか集英社が小説版でも作るのに使うような機材のあるところで仕事をしてたんだけど、そこの社長が「使ってもいいよ」って言ってくれて。それで文字だけ全部打って、四角は全部大きさで指定して、そこに編集さんが「じゃあこの写真はここに貼り込み」って貼り込んでくれて、あげた。
これの後に私はアップル社のマッキントッシュを買ったんだけど、この時はまだ持ってなかった。PC98[67]だのなんだの言ってるころだもんね。
うん。このちょっと後からそういう個人のレベルになっていく。音楽もそうですよね。DTM[68]の前の時代です。
まだ個人でそんなことやるなんてね。やるんだったら、高いシンセサイザー買うしかないよ。
サンプリングマシンがめちゃくちゃ高かった。
OUTはこの休刊号で突然ドーンと終わっちゃったでしょ。私も編集部に提出に行ったら、なんか荷物がその辺に全部積み上がってて、なんだこりゃって。だいたい編集長もこのあいだ変わったばっかりなのにまた変わるの、誰々がやめて、今度あなたが編集長、なんて思ってたら、これでOUT終わりですって言われて。いや、OUTどころか会社がなくなって。
そういう最後の最後は、もう何だったら自分でやっちゃってもいいよ、みたいな思いもさせてくれたしね。なんだったんだろうね…私は月刊OUTは、創刊号も見たし、最後まで見たし。
[1] よたろうランド:読者や身近な人の失敗談を集めた投稿コーナー。'79年に始まり、少しずつタイトルを変えながらも長く続いた。略称は「よたらん」。
[2] アニメックス:アニメーションのセル画専用の塗料。 参考リンク
[3] やぎざわ梨穂:漫画家。月刊OUTでは記事やアニパロ小説のイラストのほか、『戦場で…!?』の連載など、数々のアニパロ漫画を執筆する。
[4] 榎本一夫(えの):デザイナー・イラストレーター。デザインスタジオの(有)バナナグローブスタジオの創設者で週刊少年ジャンプの読者コーナー『ジャンプ放送局』の一員。月刊OUTでも多くのイラストを手掛ける。
[5] 科学忍者隊ガッチャマン:タツノコプロ制作のアニメ。'72年-'74年。続編の『ガッチャマンII』『ガッチャマンF』は'78年-'80年。主人公は科学忍者隊のリーダーである大鷲の健だが、No.2の役のコンドルのジョーも女性ファンの人気を集めた。コンドルのジョーの本名はジョージ浅倉。
[6] スタジオ・マリン:’82年7月号「アニパロマンガ家訪問記」という記事に登場し、「あの狂気の軍団スタジオ・マリン」と書かれている。
[7] 六神合体ゴッドマーズ:横山光輝のSF代表作「マーズ」に大胆なアレンジを加えた東京ムービー制作のロボットアニメ。'81年-'82年。主人公明神タケル(マーズ)と、双子の兄のマーグの関係に女性ファンが熱狂した。
[8] ロマンアルバム:徳間書店が出版しているアニメのムック本シリーズ。『六神合体ゴッドマーズ』のロマンアルバムの発行は'83年3月。
[9] 戦闘メカ ザブングル:富野由悠季監督、日本サンライズ制作のロボットアニメ('82-'83年)。
[10] J9シリーズ:東映動画制作のアニメシリーズ。『銀河旋風ブライガー』('81年-'82年)・『銀河烈風バクシンガー』('82年-'83年)・『銀河疾風サスライガー』('83年-'84年)。シリーズ名は、いずれも「J9」を名乗るチームが登場することから。
[11] C:月刊OUT編集部員、後に『アニパロコミックス』編集長。OUTでは投稿コーナー『ミックスサンド』などを担当した。
[12] ザ・コンテスト作品集:'78年11月号から始まった、1ページ漫画の投稿コーナーを月刊OUT臨時増刊として単行本化したもの。'83年8月・'83年9月・'84年10月と発行された。
[13] ゆう坊のでたとこまかせ:堀井雄二が構成した同名の投稿コーナーの単行本。'90年4月発行。
[14] サイン会:'84年9月号によれば「みのり書房としては初めての地方におけるサイン会」。岩崎摂・浅倉ジュリー・ぱんよめ・えの・OUT編集部Cがサインをした。
[15] ぱんだのよめいり(ぱんよめ):元OUTの投稿者、のちにアニメーター。OUTのカットなども多く手掛ける。本名・家入多佳文。2024年8月逝去。
[16] 岩崎摂:漫画家。増刊の編集アルバイトからOUTに関わる。連載アニパロ漫画『MY HOME ギジェ』には「岩崎摂のJUST笑タイム」と書かれていた。
[17] ジムシー・団地妻:「ジムシー」は『未来少年コナン』のキャラクターの顔マネ。「団地妻」は、大根を艶かしい女性のヌードに見立てた写真。他にも、局部をさらした犬と猫の写真に「ノーパン喫茶」と名付けた作品など、写真だけでなくネーミングも秀逸。
[18] ミーハー特集:'85年7月号から『ジュリーくんのミーハー特集』というカラーのアニメ紹介ページがあり、『北斗の拳』の記事が出ている。他に取り上げられたのは『キャプテン翼』『ガンダム』『タッチ』『機甲創世記モスピーダ』など。
[19] 北斗の拳:原作:武論尊、作画:原哲夫によるアクション漫画。週刊少年ジャンプ連載('83年-'88年)。TVアニメ版『北斗の拳』は'84年-'87年、『北斗の拳2』は'87年-'88年、東映動画制作。シリーズディレクターは芦田豊雄。芦田は映画版('86年)では監督を務めている。
[20] キャプテン翼:高橋陽一によるサッカー漫画。週刊少年ジャンプ連載('81年-'88年)。TVアニメ版は'83年-'86年。その後も漫画は続編が発表され続け、アニメも何度もリメイクされる。C翼(キャプつば)は当時の女性向け同人誌の花形であった。
[21] 芦田さんのところ:芦田豊雄が設立したアニメ制作会社「スタジオ・ライブ」のこと。
[22] 塩沢兼人:声優。『戦国魔神ゴーショーグン』のブンドル、『銀河旋風ブライガー』のブラスター・キッド、『究極超人あーる』のR・田中一郎のほか多数の作品に出演。甘くクールな悪役から、三枚目のギャグキャラまでこなす人気声優だったが、2000年46歳で逝去。
[23] 南斗水鳥拳:『北斗の拳』に登場する拳法の一つだが、ここではその使い手である美形キャラクター「レイ」の代名詞として使われている。アニメでの声は塩沢兼人。
[24] 特集:'85年7月号、ジュリーくんのミーハー特集『北斗の拳』。主人公のケンシロウの絵は2枚なのに、レイは9枚も載っている。
[25] 須田留貧(すたるひん):ライター。仁最祖義とともに『OUTシャイダー』など数々のパロディ企画の記事を執筆。のちに三条陸として『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』原作、戦隊シリーズ・仮面ライダーシリーズ脚本などを手がける。
[26] U介・健二のアニソン・スクランブル:北沢U介と田中研二による、アニメソングを紹介する音楽コーナー。北沢U介はOUT初期から様々な音楽コーナーを構成していたが、このころに『APRES』というみのり書房の雑誌を創刊することとなり、OUTでのコーナーが終了した。
[27] ジュリー・梨穂の勝手に盤(さら)まわし:‘84年10月号から’85年5月号まで。やぎざわ梨穂と浅倉ジュリーのハイテンションな掛け合いで、アニメを中心としたレコードを紹介するコーナー。
[28] 山本正之:歌手・シンガーソングライター。『タイムボカンシリーズ』や『J9シリーズ』の主題歌などで有名。'88年12月号の『MUSICIAN PICKUP』という浅倉のコーナーで山本正之の特集をしている。
[29] ハイテック・デジタルトリップ:ハイテック/デジタル・トリップは当時人気のアニメ音楽をシンセサイザー音楽に、ジャム・トリップはインスト/ジャズ・ファンク風のアレンジをした作品。「80年代の実験的な国産電子音楽の忘れられた宝庫」とのこと。 参考記事
[30] カレンダーガール:'85年4月号『勝手に盤まわし』。「MC-4(※Rolandのシーケンサー)などを駆使して新しい音作りをしてる」「時代の変遷を感じさせるシティ・ポップス」などと書かれている。『カレンダー・ガール』は新井素子原作の『星へ行く船』シリーズの一冊で、このアルバムはイメージ・アルバム。
[31] メガゾーン23:アートランド・アートミック制作のオリジナルビデオアニメ。'85年。『幻夢戦記レダ』と共にOVA時代初期の大ヒット作品となった。主題歌は「背中ごしにセンチメンタル」、歌は宮里久美。
[32] ささきいさお:歌手・声優・俳優。『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌を大ヒットさせる。他にも多数のアニメ・特撮の主題歌を手掛ける。
[33] 水木一郎:歌手。70年代よりアニメ・特撮の主題歌を数多く歌い、アニメソング界の帝王と呼ばれた。2022年逝去。
[34] SLAM DUNK:井上雄彦による週刊少年ジャンプ連載の漫画。TVアニメ版は東映動画制作、'93年-'96年。主題歌はオープニング・エンディングとも放映中に替わり、多くの曲がヒットした。
[35] るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-:和月伸宏による週刊少年ジャンプ連載の漫画。TVアニメ版は'96年-'98年。SLAM DUNKと同様に主題歌が放映中に次々と替わり、多くの曲がヒットした。アニメは2023年にリメイクされた。
[36] キャッツ・アイ:北条司による週刊少年ジャンプ連載の漫画。アニメ版は’83年-’85年。主題歌「CAT'S EYE」で歌手の杏里は'83年のNHK紅白歌合戦に出場した。
[37] 梨穂とジュリーの勝手にセレクション:85年6月号から'86年10月号まで。基本フォーマットは『盤まわし』と同じだが、さらに本やコミックのおすすめが加わった。
[38] ミーハー極楽(パラダイス)まっしぐら:アニメ・コミック・音楽などジャンルを問わず、好きな作品・アーティストを推す投稿コーナー。'86年11月号から’88年4月号まで(第一期)、'91年12月号から’95年5月号まで(第二期)。浅倉によれば「女の子の投稿の比率が99%」。
[39] THE ALFEE:桜井賢・坂崎幸之助・高見沢俊彦によるロックバンド。デビューは'74年。月刊OUTでの浅倉の記事の端々に出てくるので、読者のイメージの中ではもはや浅倉とTHE ALFEEは切り離せないものであった。
[40] 久石譲:'85年11月号、『アリオン』のイメージアルバムを中心としたインタビュー。久石譲はスタジオジブリ作品や北野武作品の映画音楽などで有名だが、この頃はジブリ以外のアニメのサウンドトラックやイメージアルバムも多く手がけていた。
[41] 絶句させている:『モスピーダ』のライブ撮影で久石がサングラスをかけて出てきたのについて浅倉が「わーっすごいっ、かっこいいんだあ♡」と言っているのに対し、久石も絶句したのち、「あ、ホント?じゃ、これからそうします(笑)」と答えている。
[42] インタビューを持ちかけた:'88年2月号のミーパラに、「THE ALFEE インタビュープロジェクト計画第1歩!」とのタイトルで特集ページがあり、新盤試聴会にてTHE ALFEEのメンバーに名刺を渡しインタビューの話を持ちかけた、という話が載っている。
[43] レンズマン:E.E.スミスによるSF小説シリーズで、スペースオペラの先駆けとなる作品。TVアニメ版は'84年-’85年。映画版アニメ『SF新世紀レンズマン』('84年)のテーマソングはTHE ALFEEが手掛け、ヒットした。
[44] 人気投票:『ジュリーくんのなんでもBEST10!』('89年8月号〜’91年10月号)では毎月ひとつのテーマ(例えばトルーパーのキャラクター)で人気投票を行っていた。
[45] 1000枚:人気投票のコーナー『ジュリーくんのなんでもBEST10!』では、コピーでない限りは一人何票投票してもよいことになっており、人気作品の特集では一人で数百枚も投稿してくる読者がいた。
[46] ドグラ・マグラ:夢野久作の小説。'90年10月号の『ジュリーくんのなんでもBEST10!』小説特集で296票を集めて第一位となる。名作と名高いが、コーナーの雰囲気にはまるでそぐわない小説が1位になっていたので可笑しかった(WH感想)。
[47] 創刊号:'77年5月号。「目からビーム」の表紙で有名な創刊号の特集は、金田一耕助とブラッドベリだった。
[48] ヤマトの号:'77年6月号。伝説の『宇宙戦艦ヤマト』特集号。
[49] ファンロード:'80年にラポートから発刊された、読者投稿を主体とする雑誌。
[50] アニメージュ:'78年に徳間書店から発刊されたアニメ専門誌。
[51] マイアニメ:秋田書店から発行されたアニメーション雑誌。'81年3月に創刊。
[52] RII追悼イベント:2015年10月11日、新宿のトークライブハウスLOFT/PLUS ONEにて開催されたイベント「暗根忌(あんこんき)」のこと。元OUT編集者RⅡ氏は2014年12月2日逝去され、当日は実弟の榎野彦さんをはじめ、縁のある編集者やライターさんが大勢ゲストとして参加され、面白おかしく氏をしのぶ会となりました。
[53] 留止:パロディ小説家。数多くのアニパロ小説をOUTに執筆する。'80年11月号の『ムーミン谷の赤い彗星』はシャアとノンノンが…という悶絶必至の小説。
[54] 鎧伝サムライトルーパー:’88-'89年に放送されたサンライズ制作のアニメ。聖闘士星矢の商業的成功の影響を受けた作品だが、星矢同様、女性アニメファンからの絶大な支持を集めた。
[55] 大徳哲雄:月刊OUT4代目編集長。
[56] アニパロコミックス:みのり書房発行の、アニパロ作品を中心とした雑誌。月刊OUTの増刊('82年7月臨時増刊号)として始まり、'86年1月号より隔月刊に。
[57] やおい:男性同性愛(ゲイ)を題材にした女性向けの漫画や小説などの俗称。「ヤマなし・オチなし・意味なし」の頭文字に由来する、と言われていた。
[58] 浪花愛:漫画家。『シャア猫のこと』や『五右衛門金魚』などのアニパロ漫画を連載する。「浪花愛のカマトトサロン」という副題が柱部分についていた。
[59] ハガキの数:'90年11月号のなんでもBEST10!(グランゾート特集)では8988通。
[60] でたまか:堀井雄二の『ゆう坊のでたとこまかせ』の略称。でたまか90年4月号「ラブホテルツアー」特集では「ダンボール箱にあふれんばかりのハガキのたば!」とあり、枚数はわからないが同じくらいだったかもしれない。しかし常にこれほどあったわけではなさそうだ。
[61] 魔神英雄伝ワタル:サンライズ制作のアニメ。'88年-'89年、続編は'90年-'91年。芦田豊雄の月刊OUT'88年2月号の表紙イラストを原型として制作され、キャラクターデザインは芦田。TVシリーズ終了後も人気は根強く、ラジオ番組(ラジメーション)として継続。月刊OUTにも投稿コーナーがあった。'97年-'98年と2025年に新シリーズが制作された。
[62] 組織票:人気投票のコーナー『ジュリーくんのなんでもBEST10!』では、コピーでない限りは一人何票投票してもよいことになっていた。
[63] トルーパーの彼女:神奈川県の順ノ介という読者が、'90年4月号のトルーパー・輝煌帝伝説特集では982票、'90年5月号のアニメ主人公特集では470票を投票しており、浅倉から「まいど1枚1枚にこんだけ手を入れてくれて、社会生活はダイジョーブかい?」と気づかわれている。
[64] 天空戦記シュラト:タツノコプロ制作のアニメ。'89年-'90年。サムライトルーパーに続く美少年モノのアニメとして女性ファンの人気を集め、月刊OUTの表紙になること3回。
[65] DTP:デスク・トップ・パブリッシングの略。PC上で紙面のレイアウト・組版作業を行うことを指し、いまはそれが当然の前提だが、当時まだ業界では導入の過渡期だった。
[66] Adobe InDesign:DTPアプリとして現在は完全にスタンダードになったアプリ。それ以前は米国Quark社のQuark XPress(通称クオーク)が業界の定番で、このときジュリーさんが使ったのも後者と思われる。
[67] PC98:NECが販売していたパーソナルコンピューター、「PC-9801」シリーズの通称。日本では長期にわたり「パソコン」という言葉の代名詞だった。
[68] DTM:デスク・トップ・ミュージックの略。すべてPC上で音楽制作を行うことについても当時はまだ黎明期だった。