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男はある種の鉄道マニアだった。

新幹線の流線形の鼻づらに、実物大の、人の形をしたへこみをつける
のが唯一の趣味。
そんな彼の無用の汗と輝きに満ちた人生も、しかしついに今夜限りと
言えそうだった。
いつものように丸頭ハンマーと壮健美茶(水分補給用)を持って忍び込んだ
JR大宮車庫の内部は突如真昼のように照らされて、逃げ場なくぐるりと
彼を取り囲んでいるのはおよそ3000人のJR職員、しかも即座に
彼には分かったのだが全員車掌だ。

「‥‥多すぎる!」

心のなかで呻く。気が付けば彼が立っているのはあの忌まわしい廻り舞台、
そう、転車台のまさにど真ん中、そもそも何故こんなものが倉庫のなかに
あるというのか!?
そんなことが可能なのかどうかよくわからないがすべての新幹線がまさに
その中心をむいて周囲の線路にぐるりと並び、それぞれ二つのランプが
ぎらりと光って彼を見据えている。
だが新幹線の場合、目のように見えるのはいつも運転席のガラス窓だったと、
もはやすべてが手後れと悟った絶望のなかでひとりごちながら見上げた
運転席には見覚えのある人影が!

「は、ハト駅長!?」


そう、それはまさしく伝説の一日ハト駅長だった。

なにがそれの存在を許したのか、誰にもわかっていない。
それはハトであってハトでなく、もちろん人では全くなかった。
全ての駅の敵であるはずのハトが、制服に身を包み、帽子をかぶり、
発車ベルを鳴らし、小学生と握手する。その光景は全くの超常現象だった。
ハトの姿をした時空の裂け目、宇宙の特異点。それがハト駅長だったのだ。

それが支配者として君臨した1日の間に、JR上野駅はハトの糞に埋もれ、
完全に崩壊した。
時刻表からは数字が次々と抜け落ちてゆき、上野駅のタイムテーブルが
あったはずの場所に空いた真っ黒な穴の中に、ページが一枚また一枚と
吸い込まれていった。
混沌が世界を呑み尽くすかと思われたそのときに、巨大なカラスの群れが
飛来してハト駅長を無数の羽毛の切れ端に変え、世界はようやく平常の
秩序を取り戻したのだ。
おそらくそれは時空の自己復元作用だったのだろう。
裂け目は綴じられ、あとにはただハトの糞だけが残った。


だが今ふたたび、時空のありえない歪みはハト駅長の姿でこの世界に現れ、
ありえない脱出口を彼に差し出そうとしている。
これこそ彼が待ち望んでいた秩序の破壊、現実への越権行為そのものだ。
彼がこの世界の敵と見なされ、削除されようとしているその時、世界の敵は
彼の味方についたのだ。
どこを見ているのかわからないその目は彼に「生きろ!」と言っているに
違いないのだ。きっとそうなのだ。彼は信じてついてゆけばいいのだ。


彼の視線の先にあるものに気が付いて、車掌たちの間に動揺が走った。
あわただしく手旗が振られ、笛が鳴り、包囲の輪が崩れて彼とハト駅長を
結ぶ一直線の道がひらかれたとき、彼は闇雲に駆けだした。

そして新幹線の鼻面がピンボールのプランジャーのように飛び出し、
彼は彼自身のネガとしての人の形の刻印をくっきりとその流線型に
刻み込つけたあと、時速200kmの速度で工場の屋根をぶち抜き、
冬の夜空へと射ち出された。


子供の頃、スペースシャトルと新幹線はとてもよく似ていると
思っていたのを思い出す。
僕が本当になりたかったのは、宇宙飛行士だったのかも知れない…


夜空の一角から星が消え始めた。
空を覆い隠して飛来したのは、巨大なカラスの群れだった。


それからのち、彼の姿をみたものは誰もいない。



 

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