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あたたかい冬の窓にはプラスティックの雪が降り、遠目に見ても
汗だくな僕は、それでも炬燵から出ようとはしない。


僕は自然しか欲しくない。
昔ながらの四季しか要らない。


今やカマクラですら生きていて、1時間もあればもとの場所から
50センチは移動しているというのに、餅はあいかわらず急いで
食うと喉に詰まる、そんなささいな事実がうれしいのだ。
と餅を喉に詰まらせながら思った。

142歳の頑固な老人がこの世から隠居を果たすのに、それは実に
おあつらえ向きの小道具ではあった。きわめて伝統的でもある。
と紫に染まる視界の中で思った。

そう、僕はあまりに頑固で142歳の老人なので、月にウサギが
住んでいるなどという世迷い言を信じるわけにはいかないのだが、
ここは月面だしこの餅は町内会の餅つきでウサギがついた餅なので
まだ暖かい。

僕はあんころもちが好きだ。

ちょっと粒が残っていた。七分づきといったところか。やはり
重力が地球の6分の1の月面では振り下ろす勢いに欠けるのか。
地球の6分の1の重力の中で喉を押さえてのたうち回りながら、
ふとそんなことを思った。
一跳ねごとに天井近くまで舞い上がる142歳の老人の姿は、
はたから見ればとても楽しそうに見えるはずだった。

こういう万が一の事故にそなえて、僕の喉には高性能のセンサーが
取り付けられている。
いまそれは「餅が喉に詰まりました」「餅が喉に詰まりました」
「餅が喉に詰まりました」と繰り返す以外には特になにかをして
くれるつもりはないらしい。
視界が急速に狭まり、無数の星が尾を引いて飛び交う。僕は今まさに
未知のステージへと突入しつつある142歳の老人だった。


ところで、月面には老人ホームが多い。低重力の優しさというのが
売り文句だが、打ち上げのショックで老人の3割が死亡するという
事実はあまり知られていない、というか、故意に伏せられている。

宇宙は人類に優しくない。
老人は年をとるほど怒りっぽい。

神もまた老人で、怒りにまかせて杖を振るい、意味もない災厄や
不幸を惜しげもなく人々の上に降らせるので、世界は年を重ねるごとに
ますます不条理コントの様相を呈してくる。


と、そのとき、サイケデリックな視界の隅に、長い耳がぴこぴこと
揺れながらこちらに近づいてくるのが見えた。
ウサギの月面救助隊が駆けつけてくれたのだ。
だが、深い安堵に包まれた次の瞬間、それはあっさりと消え失せた。
いまわの際に脳が見せるたぐいの幻覚だったのだ。

僕は死ぬほどがっかりした。こんな死にかけの状態で死ぬほど
がっかりすると普通はそのまま死ぬんじゃないかと思うが、意外に
持ちこたえている自分にはおどろく。
そうだ、打ち上げのあのすさまじい加速にも耐え抜いたのだ。
雑煮くらい最後まで食ってから死にたいものだ。

僕に必要なのはあの起死回生のジャンプ、追われて走る野ウサギが
横っ飛びに藪の中に消えるような、死の魔手をかわす一跳躍だ。
水揚げされたエビの様な痙攣を繰り返し、僕はひと飛びごとに
部屋の反対側へとにじり寄っていった。
その先には巨大なフリーザーの輝く扉があった。


かくして、2112年の元旦に餅を喉に詰まらせた僕は、
2113年の元旦に解凍され、自分の喉から取り出された餅を
ふたたび食っていた。
物事とはかくあるべきだ。変わらない何かを人は必要としているのだ。
僕は依然として142歳の頑固な老人で、あいかわらず餅は
急いで食うと喉に詰まった。



 



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