待てずに読んだ



 
のろのろと進む読書の記録

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#20030507

 ジョン・ヴァーリイミレニアム」。
 ヴァーリイの長編では一番好きなのに、かなり以前に手元から無くなったままでした。いくら探しても自分の行動圏内では見つからなかったのが、先日とあるつてで数年ぶりに再会がかないました。ありがとうございます。

 ああ、やっぱりすばらしい。このアホのようなグロテスクさが。

 二人いる語り手のひとりは航空機の墜落事故調査に携わる男で、冒頭からジャンボジェット2機の空中衝突、生存者ゼロという大事故の知らせを受けて現場に急行、くすぶる残骸の中を歩き回りながら眼前に広がる地獄絵図を淡々と語ってくれます。もう一方の語り手は汚染によって人類が滅亡の危機に瀕したはるかな未来から、遺伝子のいかれてない健康な人間を連れ帰るという任務のもと、まさにその同じ旅客機の墜落直前の機内に時を越えて乱入、乗客をのこらずひきずり出したあとの機内には人数あわせのために自分たちの未来からもってきた脳の機能していない人間をならべていくんですが、これがご丁寧にも下ごしらえ済みの、つまりあらかじめ手足をもがれ、人相もわからぬほどに焼け焦げた皆さんで、こちらも大変な地獄絵図。この二つのひどい景色がかわりばんこに展開する語り出しは、グロテスク作家としてのヴァーリイの最高傑作でしょう。これが忠実に映像化されちゃった日にゃ、恐くてとても見られません。

 しかしこれ、映画にはなったのでした。ショボくてダルいB級映画でした。そして映画制作にまつわる長い長いゴタゴタで、作家としてのヴァーリイの80年代には大きな空洞ができました。これについては本人が語ったインタビューがありますが、どうやら相当へこんだようです。いくつかのインタビューやエッセイを読むに、ヴァーリイはかなりのへこみ屋&ボヤき屋です。

 小説と映画を比べてみると、小説のほうが先に世に出たはずなのに、これがB級SF映画の見本みたいな映画版に対するアンチテーゼのようなつくりになっているのが面白いです。映画の方は途中でいったん製作が頓挫したという事情があるので、シナリオの完成が先だったのかもしれません。映画版で主人公ふたりの間に発生するありがちなロマンスも、小説のほうにはいくつかの背景が加わって、苦い味わいを残します。

 さて、タイム・パラドックスの解釈に関してはかなり怪しげになっていまして、過去に致命的な変更が加えられると、そこから波及する世界の再編成作用が「時震」として時速500年の速さで津波のように「現在」にむかって押し寄せてくる(!)というところからすでに面白いんですが、さらにこれが、現象の中心から充分に離れた場所に避難していればその再編成の影響を被らずにすむ(!!)という「地震がきたら高台に逃げましょう」みたいな仕組みになっていて、ツッコミの意味で本を放り投げるという儀式が読者に求められています。さらに、終盤にはとある事情通が「時間に『数』はまったく関係ない」と断言してくれます。「年数とかそんなんどうでもエエねん」と。言う存在が存在だけに(←と書いてしまうとバレバレですが)説得力があるというかなんというか、見事な開き直りです。

 こんな風に書くとなんだかこの小説をいわゆるB級作品として愛でているようにとられてしまいそうですが、この小説のいちばん好きなところは、他の作品と同様、ヴァーリイらしい「苦さ」が存分に堪能できるところです。どうしようもない苦境におかれた登場人物たちがそれぞれに「俺は(あたしは)首までクソに埋まってる」と説明するときの、適度にドライで、やさぐれ気味にユーモラスで、ひらきなおりとひねくれが丁度よく配合された、実も蓋もない語り口。そしてその先に待つあまり嬉しくないハッピーエンド。これが(アイデアの凝縮にも勝る)僕にとってのヴァーリイの大きな魅力です。


#20030527

 マイケル・オンダーチェIn the skin of a lion」。
 やっと読み終わりました。高くてちっこい和菓子をちょっとずつ食べるような楽しみ方をしてました。そもそも、カバンに突っ込んだ本はもうそれっきり電車のなかでしか読まなくなってしまう関係上、週に何回電車に乗るかがそのまま読書の進展に関わるというわけで、現在は週に6時間ペースとなっております。のろい。(ちなみに、ギブスン「Pattern Recognition」はいま寝室の枕元にあり、2〜3ページ読んでは眠りの国へ、の繰り返しでぜーんぜん進んでません)

 一見つながりのない出来事がとりとめもなく並べられ、そこに主要な登場人物がぽつりぽつりと現れて印象的な場面を演じ、やがてそれらが驚きとともに繋がって、美しくも隙間だらけのパッチワークが出来上がる。

 いいです。美しいです。満足です。しかし、例によってさりげなく並べ換えられた出来事の順序に惑わされ、読み終えてからも「あれ?ここって順序逆?」としばしページを行ったり来たり。そして、終盤ちかくにあってしかるべき重要な一場面が描かれないままに終わっていることが、読み返すほどに気になります。この話の真の語り手がわざとそこを語らなかった、ということなんでしょうか。
 冒頭の但し書きを、語り手による意図的な歪曲や創作の隠し味をご堪能くださいというシェフの注文だと思えば、たとえば青色のペンキを全身に塗って青色の屋根に張り付き、監視の目をくらますというおとぎ話のような脱獄の場面も、少女自身の作り話か、少女にそれを語った人物のホラのように思えてきます。
 あと、気になりながらも読み流してしまったのが、時制の使い分けです。場面によって語りが現在形だったり過去形だったりするんですが、その法則というか意味が分からないまま読み終わってしまいました。ボンクラです。

 「イギリス人の患者」の主要人物とまったく同じ名前の人物が2人いて、しかも一人は職業も同じ、さらに舞台となる時代もとても近いので、この2作は続編の関係なのだろうかと思いながら読んでいましたが、読み終えてみるとまあ、続編ではないかも知れないが、いずれにしても「イギリス人の患者」を読み返さねばなるまい、という気持ちに。
 いまパラパラと「イギリス人の患者」を見てみたら、実際には4人の登場人物が、まるで別な人生を歩んだ同一人物のようにふたつの小説にまたがって登場していることがわかりました。2作の間に物語上の繋がりはないのに、この4人だけは、時代背景上で2作を隔てる年月のぶんだけきちんと齢をとっていて、「イギリス人の患者」はたしかに「In the skin of ...」の「その後」の物語としても読めるようなのでした。別な人生を歩んだ同一人物というよりも、それまで暮らしてきた世界からそっとひろい上げられて別な平行宇宙に本人も気付かぬままに再配置され、ちょっとだけ違った背景をまとわされながらもそれまでの人生の延長を生きている、という感じ。そういうのはすごく好きです。 ……え?よくある使い廻し? いやいや。いやいやいや。

 さて、次はやはり「ビリー・ザ・キッド全仕事」か。邦訳と原書のどっちで読むか迷っております。原書だと、文章の美しさを堪能できる(またはしたような気になれる)一方で、ボンクラ読者なのでいろいろと読み落としそうで心配なのです。それともさきに詩集を読んでおくべきか。



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Akiary v.0.51