待てずに読んだ



 
のろのろと進む読書の記録

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#20030427

 スタニスワフ・レム星からの帰還」。
 深宇宙探査からウラシマさんとなって帰ってきた主人公が、一世紀以上も時が過ぎて変わり果てた地球社会で経験するカルチャーショックのつるべ打ち。これが大層気持ちいいです。また、その未来社会の描写が、書かれた当時(1961年)のエアブラシ&雲形定規カーブのビジュアルイメージを当然想起させながらも、現在のベジェ曲線&レイトレーシングCGの、それこそテレビの企業CMに出てくるような未来映像をあてはめてもまるで違和感がないというのは、未来のイメージというものが結局のところ半世紀をへても基本的には変わっていないということなんでしょうか。まあ、実際は読むこちらの頭がそういう現代のイメージにすっかり染まってしまってるだけなんだと思いますが。とはいえ、中空に炎のようなホログラム文字が現れ、ぐにゃりと変形して表示が変化するなどという描写はいかにもCG風で、今読んでもなかなかいけます。

 気になる所といえばやはり古い未来小説を読むときの常で、コンピューターの不在が気になりました。もちろんでっかいコンピューターはちゃんとありますが、社会に浸透した日々の暮らしのインフラストラクチャーとしてのそれの存在がまったくないので、気になるというか、寂しいというか、旅先の宿で和風便器に遭遇したような「不便感」が読んでいる間じゅう付きまといます。「21世紀なのにクルマが飛ばない」などと文句を言うよりも、こういうきらびやかな未来小説を読むことでむしろコンピューター革命のすごさ&便利さに改めて感じ入り、ああ、やはり我々が住んでいるのは素敵な21世紀であったのだなあと膝の上のAIBOをなでながら悦に入る、そんな日本の長い午後(リストラ無職)でもいいのではないかと思いました。ナノマシンはまだですか。
 いまから50年後の人間が現在の未来小説を読んだときに一体どんな不便を感じるのか、となるともうまるで想像の範疇を越えていますが、想像もつかない何かがきっとあるだろう、運が良ければそれを実際に目の当たりにして、50年前の不便に思いをはせることも出来るだろう、と思うのはとても楽しいです。それが「ヤプーがない世界って超不便じゃない?(金髪ギャル談)」みたいなものでないことを心の底から願います。50年後に「超」って。

 「ソラリスの陽のもとに」といい、「捜査」といい、レムの小説は、心に重いものを抱えた人物たちが互いに相手の内面の重圧を察しつつも重苦しく対立する様子を描いた場面が素晴らしいんですが、この作品でも、そういうずっしり感を存分に堪能できました。

#20030428

 グレゴリイ・ベンフォードタイムスケープ」。
 ふと本棚の奥から取り出してきて、何年ぶりかの再読。ベンフォードではこれと「夜の大海の中で」に始まる六部作の第二作「星々の海を越えて」が大好きなんですが、両者に「見知らぬ存在から訳の分からぬ通信が届き、困惑と苦難の先にカタルシスに満ちた意志疎通の瞬間がおとずれる」という共通点があることに気が付きました。そこがツボか。うん、それはあるかも。それと、通信文そのもののミステリアスで不気味な外見も好きです。
 前者のそれは、地球規模の環境破壊によって滅亡の危機に瀕した近未来の人間からタキオン粒子にのせて送られたノイズだらけのモールス通信。ノイズで損なわれた部分は翻訳では上下さかさまのカタカナで表現されていて、今読むとメールの文字化けのよう。句読点なしでぎっちり詰め込まれた生化学の情報の後に送信者の個人的事情が切れ間もなく繋がり、奇妙な親密感をただよわせます。モールス信号というのがまたいいですね。
 後者は、機械知性によって地球に放流されたイルカのような異星の水棲生物からの、地球上の幾つもの国の単語が文法もメチャクチャにつなぎ合わされて綴られたプリントアウトで、やはりそのデタラメな単語の羅列から切実な訴えが立ち上がり、最後に記された「LUCK」の一語に(こちらも危機に直面中の)受け取り手である主人公への気遣いすらうかがえて、なかなか感動的なのです。そして、種族の歴史もまたそのプリントアウトを何枚も費やして綿々と語られていくのでした。ああ、また六部作を読み返したくなってきた。

 ベンフォードの小説に共通するごてごてした人間ドラマも大好きで、「タイムスケープ」でも、どちらかといえば不器用な主人公が、実験に現れた謎の解明に注ぐ以上の労力を職場のややこしい人間力学やガールフレンドとの政治信条の対立に費やさざるを得ない状況にはリアリティがあり、事実の解明と同じくらい、身近な人間たちについての理解が得られる瞬間にもまたカタルシスがあって、それらが混然一体となってごりごりと進んでゆく物語は読みごたえがあります。

 60年代初頭の場面で、チョイ役なのになぜか印象的に登場する科学者のカタカナ名前をたわむれにgoogleに放り込んでみたら業績がぞろぞろと現れて、「ああ、本当にいたんだ」という不思議な感動が味わえました。こういうのも「カメオ出演」というんでしょうか。書くのは楽しかっただろうなあ。ケヴィン・J・
アンダースン&ダグ・ビースンの「臨界のパラドックス」に出てきたファインマンさんが魅力的だったのもちょっと思い出しました。小説そのものはつまらなかったけど、あそこだけよかったなあ、と。

#20030429

 マイケル・オンダーチェ (Michael Ondaatje)In the Skin Of A Lion」。
 「Pattern Recognition」(これをパタレコと略すのはどうかと思う)はなんとなく中断して、これを読みはじめてます。困った。SFじゃない。いや別に困らない。
 「イギリス人の患者」が大好きで、というか、この人の「美しい場面や情景が順序もプロットもお構いなしにただ連なってなにか素敵な本になる」というスタイルが大好きなので、「Anil's Ghost(邦題:アニルの亡霊)」「Coming Thorough Sloughter(邦題:バディ・ボールデンを覚えているか)」(←いずれも邦訳が出ていたことに読み始めてから気付きました)ときて、今度はこれ。

 冒頭に、この物語が、とある場所へ向かう車のなかで運転する男が助手席の少女に向かって語ったことを少女がまとめあげたものであると説明する一文があり、男が誰なのか、少女が誰なのかは一切説明されずに物語が始まります。二人のやりとりの場面が途中で挿入されるのかと思っていたらまったくそういうことはなく、あとはただ淡々と20世紀初頭のカナダの森林、霧につつまれた鉄橋の建設現場、という特に関連のないふたつのシチュエーションを舞台に、美しい情景が静かに展開します。登場する男女のなかに冒頭の二人がいるのかどうか、まだわかりません。しかし、実をいうと、10年ちかく前に風間賢二氏がこの小説を紹介した文章を読んでいて、その記憶がちょっと残ってるのが困りました。えー、早い話が、肝心な名前を覚えている(あーあ)。妙な「既読感」を追い払いながら読むはめに。



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Akiary v.0.51