海外文学 Advent Calendar 2022の10日目です)


オクテイヴィア・E・バトラーの「パターニスト」シリーズ


長編『キンドレッド』復刊、短編集『血を分けた子ども』の刊行でいっきに知名度の高まったアメリカのSF作家オクテイヴィア・E・バトラー。竹書房から『種播く人の物語』『才有る人の物語』二部作の刊行も予告されています。(個人的にはこの二部作がいちばん好きです)
この勢いで訳されてほしいな、という気持ちをこめて、未訳の「パターニスト・シリーズ」を紹介します。バトラーの初期の代表作であり、全5部作のうち、『Wild Seed』は現在ドラマ化企画が進行中のようです。(でも、続報がないので立ち消えになっちゃったかも……)

なお、のっけから興をそぐようですが、シリーズ3作目の『Survivor』は、作者自身が出来を気に入らなかったのだそうで、本国でも再刊されず入手困難になってます。(シリーズ合本からも外されている!)筆者もいまだに読めていません。読者としては、すごく読みたい。でも、小説を書くこともある身としては、失敗作を読んでほしくないという気持ち、すごくよくわかる。作者が世を去ったのをいいことに復刊するとか、絶対にやらないでほしいです。これについては悩ましく思います。ただまあ、読まないと話がつながらないというものではありません。

物語の中心にいるのは、〈パターニスト〉と呼ばれる、テレパシー能力を持った人々です。いまはテレパシーはエンタメのネタのひとつですが、SFのホットな題材だった時代があるんですよね。バトラーのこの作品もそういう状況のなかで出てきたものだと思います。
アメリカの開拓時代、現代(70年代)〜至近未来、遠未来、と舞台を変えて、このパターニストたちの誕生と世界支配、パターニストを誕生させたドロという不死者の野望、地球外からの疫病などが語られ、全体としては、のちの作品の多くと同様に、支配・被支配の関係についての物語をなしています。のちの作品よりもエンターテインメント性が高く、これは、まだ広く知られる作家ではなかったバトラーがマーケットに受け入れられる(と編集者が判断する)作品を書く必要があったからかもしれません。(ちなみに、『キンドレッド』の刊行は、シリーズ3作目の『Survivor』の翌年、1979年です)

書かれた順だと
・Patternmaster(1976)
・Mind of My Mind(1977)
・Survivor(1978)
・Wild Seed(1980)
・Clay's Ark(1984)

作中の時間順では
・Wild Seed(開拓時代)
・Mind of My Mind(現代というか、刊行当時の70年代)
・Clay's Ark(近未来)
・Survivor(近未来)
・Patternmaster(遠未来)

というわけで、デビュー作でもあるシリーズ第1作がいちばん未来を舞台にしており、ここで描かれる世界の成立過程が、のちの作品で少しずつ明かされるという構成になっています。猿の惑星スタイルですね。


■Patternmaster

舞台は遠未来の地球。人間の社会は、自らを〈パターニスト〉と呼ぶミュータント人類によって支配されています。パターニストは他者の精神と交信できるだけでなく、認知や感情を操作し、支配する能力を持っています。この能力によって、能力をもたない人間を実質的に家畜化し、テクノロジー的には衰退した文明を営んでいます。
パターニストと地球を分け合うのが、〈クレイアーク〉と呼ばれる、半人半獣のミュータントです。はるか昔に宇宙探査船が持ち帰ったウイルスによって変異した人類の末裔で、意思の疎通は不可能であり、パターニスト社会とは敵対関係にあります。

パターニストの頂点には〈パターンマスター〉がいます。すべてのパターニストがマスターを中心とした精神感応の網である〈パターン〉で結ばれ、マスターがパターニストとしての強大な精神パワーによってすべてを支配するという、究極の中央集権社会です。
若い男性の主人公はパターニストのひとりで、過酷な境遇からさまざまな苦難を乗り越え、パターンマスターに君臨する、というのが物語のあらましです。

すごいと思うのは、この社会がいわば「完成された奴隷制」であるということです。パターニストと人間のあいだには圧倒的な能力差があり、支配の構図が揺らぐ見込みはありません。人間が過酷に使役されているわけではないけれど、そもそも苦しみや疑問を感じないよう精神的な調整がなされており、根本的に自由を奪われています。
主人公は人間に対してある程度の思いやりを示すものの、同等の存在として扱うことは最後までなく、支配の構造を引き継いだところで物語は終わります。 アフリカ系アメリカ人であり、生涯にわたってさまざまな形で「slavery」の一語にまつわる物語を書き続けたといっていい作家の最初の作品がこれだということをどう解釈すべきなのか、いまだによくわかりません。
パターニスト・人間・クレイアークの三者が、入植者の白人・黒人奴隷・ネイティブアメリカンと、開拓時代のアメリカに重なるような関係をなしているのも気になります。
なぜこういう設定をつくったのか、作者の考えがどこかで語られていそうだけれど、恥ずかしながらまだ見つけられていません。ご教示いただけましたら幸いです。


■Mind of My Mind

舞台は現代(1970年代)のロスアンジェルス、主人公メアリーは19歳の女性。父の名はドロ。ドロはおよそ4000歳で、突然変異によって(当初は人間として)生まれた精神寄生体のような存在であり、他者の精神を吸収し体を乗っ取ることを繰り返して生きながらえてきました。安定したテレパシー能力をもつ人間を生み出すために、長い年月をかけて人間を交配させてきた結果、ついに有望な子として産まれたのがメアリーでした。
ドロは一族の絶対的な支配者で、メアリーは自由のないただの所有物にすぎず、能力者としての本格的な発現を迎える段階になって、実験の一環として、ほかの能力者との結婚を強いられます。メアリーは激しく反発するもほかに道はなく、従いますが、やがて開花したその能力は、ドロの想定をはるかに超えて強大で……

今回、半分ほど再読しましたが、とても面白いです。主人公メアリーがゲットー育ちの威勢のいいキャラクターで、それがほかの作品にない軽みをもたらしています。ドロは人間離れしたキャラクターですが、4000年にわたって他者を食い物にして生きてきた存在としての説得力があり、ほかの人物もそれぞれバトラーの作品らしい深みと重さをそなえていて、読み応えがあります。

そのうえで、『パターンマスター』を読んで感じる居心地の悪さがここでも感じられます。メアリーは強大な力を得て、さまざまな困難を乗り越え、ドロとの対決にも挑むのですが、それらはすべて、『パターンマスター』の世界に通じる道なわけです。能力者たちは人間を平然と操り、社会のなかで密かに支配の網を広げていきます。
そのなかで、ある十代の少女が、自分が能力者の一族であり、両親はほんとうの親ではなく奴隷化された人間だと知らされる場面があります。少女はショックを受け、恐れ、悲嘆にくれるも、最後には静かに現実を受け入れます。個人的に、これが作中でいちばん恐ろしい場面だと思いました。

シリーズで一冊だけ読んでみるなら、これをおすすめします。作品全体としては活き活きとして時にユーモアもあり(だからこそ先述のような場面が怖いのですが)、バトラーの長編のなかでいちばん「つらくない」作品かもしれません。


■Survivor

前作『Mind of My Mind』より少し先の未来。地球は、クレイアークが跋扈する一方でパターニストたちに社会を掌握されており、これらから逃れてほかの居住可能惑星へたどり着いたキリスト教徒の一団が、その惑星に住む知的生物の文明のなかで生き残りを模索します。

かなりSF度の高いセッティングでもあり、読みたいのですが、読めません。(英語版ウィキペディアでまあまあ筋はわかりますが)
異星生物の文明のなかに放り込まれた人類という構図は、短編「血を分けた子ども」でも描かれ、〈ゼノジェネシス三部作〉でさらに洗練された形で展開します。この三部作に出てくる異星知生体はとても魅力的で、SF面でのバトラーの最高作ではないかと思います。また、播種船のイメージは『種播く人の物語』二部作に再登場します。


■Wild Seed

前々作『Mind of My Mind』ではドロのかつての伴侶として老齢の女性の姿をまとって登場していたエマという不死者が主人公となり、『Mind of My Mind』の冒頭で簡潔に語られていたドロとエマの関係があらためて描かれます。

物語は17世紀のアフリカで始まり、エマは、この作品ではアニャンウ(Anyanwu)という生来の名前で登場します。300歳、不死であり、かつシェイプシフターであり、なんにでも姿を変えることができます。そして、治癒者としての能力も持っています。
すでに不死者として4000年近くを生きてきたドロは、エマの能力に興味をもち、おのれの計画に引き込もうと画策します。
ドロとアニャンウは奴隷として新大陸へ運ばれ、そこでドロは社会に溶け込み、奴隷を支配する側にまわって人間の交配計画を進め、エマは否応なしにそれに巻き込まれていくことになります。

エマは大きな力を持っているのに、ドロの支配を逃れることができません。それは、エマが愛する人々の生命をドロに握られているからです。『キンドレッド』で描かれたのと同様の、人質を介した支配と束縛の構図があります。不死者の視点から、アメリカの長い長い奴隷制時代の人々の苦しみが描かれています。


■Clay's Ark

クレイアークを生むことになった宇宙由来の疫病を描いた作品です。感染した人間は、他者に接触したいという強烈な欲望を抱くようになり、みずからの意思で感染を拡大させていきます。
感染者の主観描写が生々しく、切迫感と閉塞感が作品を覆っています。

これは、疫病にとりつかれた人々、疫病に隷属させられた人々の物語といっていいでしょう。バトラーの作品ではおなじみの、自分ではないものに自分の意思を操作されるという状況が描かれています。ここまでの4作のうちで一番重く救いのない物語です。
時期を考えると、疫病の設定にはこのころ猛威を振るっていたAIDSの印象が反映されているように思います。

ちなみに、疫病をもたらした宇宙探査船はタイトルにもあるように〈クレイの方舟〉と呼ばれているのですが、クレイというのは『Mind of My Mind』に登場する能力者一族のひとりで、能力が十分にあらわれなかった〈latent〉(訳すなら〈潜性者〉でしょうか)と呼ばれる人々に属します。彼がのちに宇宙計画を指揮することになります(たしかそうだったはず……ここちょっとうろ覚えですみません)



いざ書き始めてみたら、内容をほとんど覚えてないことに気づき、一度筆が止まってしまいました。(なにしろ読んだのが00年代前半だったので……)
これはいかん、ととりあえず『Mind of My Mind』を再読し始めたら面白く、それはそれで時間が飛びました。なにをやっているのか。遅れてまことに申し訳ありません(倉田タカシ Twitter:deadpop